白眉ちゃん

デッド・ドント・ダイの白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

デッド・ドント・ダイ(2019年製作の映画)
3.0
「死体は死なない。されど活きてもいない?」

 ジョージ・A・ロメロ監督の傑作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(68)により定義され、擁立されたゾンビ映画というジャンル。続編の『ゾンビ(原題:Dawn of the Dead)』(78)では生を貪る私欲としての物質主義をゾンビに象徴化し、一定の完成が見られた。その後も本家本元としてゾンビのイメージを刷新していったロメロのゾンビ映画は多くのフォロワーを生み、ゾンビを題材とする作品は映画のみならず、ドラマや漫画、ゲームにまで派生した。しかし、ゾンビ映画というジャンルはロメロ作品の影響力の大きさも相まり、ロメロのゾンビを原作とする二次創作のジャンルと言える面もある。それは言い換えると、ロメロによって全うされた(完成された)作品をフォロワーによって多少の脚色を施されながら、何度も蘇らせてきた半死半生のジャンルということである。

 ジム・ジャームッシュの最新作『デッド・ドント・ダイ』(19)もその手中にある作品である。もっと言うと、このジャンルのそんな曖昧な実存を皮肉り、自嘲しているゾンビ・コメディとなるだろうか。ロメロの初期ゾンビ三部作には、タイトルの中に時間帯を表す単語が入っている。Night(夜)、Dawn(夜明け)、Day(昼間)『Day of the Dead/邦題:死霊のえじき』(85)である。「デッド・ドント・ダイ」の劇中でも昼夜が乱れ、曖昧に成り立った世界に登場人物たちは放り込まれる。テーマソングは「死体は死なない」と繰り返し歌い、ゾンビ(ジャンル)の皮肉な特質を告げている。しかし、今作が何番煎じともわからない有りがちなゾンビ映画というわけではない。ジャームッシュらしさは確かにある。

 オフ・ビートな作風の旗手ともされるジャームッシュは、過去作でもジャンル映画の定番を巧みに回避してきたが、今作でも鈍い動き、カニバリズム、生前の習慣への執着など、ゾンビの造形はロメロの初期ゾンビを丁寧に模倣しつつ、お約束的な展開をゆるく回避していく。都会からの3人組は、若く奔放な男女が襲われるスラッシャー映画を予感させるが彼女らは悲鳴を上げることもなく殺され、断首される。ホラー映画に精通したギークもゾンビ映画に新たなエッセンスを加えることなく飲み込まれる。サブキャラクター達のエピソードはホラー映画史の派生を連想させるが、本流(警官3人)のエピソードには結局、合流しない。警官3人は武器をかき集め、警察署に集う。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のような篭城戦を期待するが、不可思議な存在感を放つゼルダ・ウィンストンの登場で、それさえも回避される。

 ジャームッシュ作品世界の常連でもある女優ティルダ・スウィントン。その名をもじったゼルダ・ウィンストンは一体、どういうキャラクターなのか?終盤、墓地で警官3人を乗せたパトカーがゾンビの集団に囲まれる。そこに颯爽と現れるゼルダ。劇的な救出を予想するも、突飛なSF設定で彼女は彼方へと去っていく。そうして、ロニーのメタ発言で煽り立てていた「マズい結末」の台本も観客も置き去りにしていく。彼女は住人の情報に内通し、町を俯瞰するような視点を持っている。また葬儀屋としてゾンビについても既知であり、剣術の達人としてゾンビの脅威も不可侵の存在である。UFOに迎え入れられる姿態は、地上の恐怖とは無縁の別次元の存在のようだ。役名のメタ性も考えれば、監督の分身として作品外から来た存在とも言えるだろう。そんな強引な神の代役の介入で、ゾンビ映画の定番は又しても否定される。

 ホラー映画は個人を抑圧する恐怖や文明社会ににじり寄る恐怖を劇化している。今作でも緩やかに歩み寄る恐怖に対して、連帯できない人々の顛末が映し出される。また、人間だった存在をゾンビ化した途端に物体として容易く消費することの危うさを示す。ロメロ・ゾンビに操を立てながら、有りがちな二次創作を回避し、ジャンル映画のエンタメには到達しない。映画の消費主義的な面白さを提供しない、そんなジャームッシュらしい死体遊びだが、ゾンビ映画というジャンルを巡回し、新たな息吹でもって蘇生できたとは感じられなかった。個人的にはジャームッシュ作品の魅力をうまく読み取れたことがこれまでもあまり無い。今作の解釈も自信はなく、いつものように「脈なし」な態度をとられた気分だけ残っている。
白眉ちゃん

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