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わたしは光をにぎっているのharunomaのレビュー・感想・評価

わたしは光をにぎっている(2019年製作の映画)
1.5
この監督は暢気な天然ボケなんだと思う。
詩人で映画監督と名乗れるのは、
コクトーとパゾリーニ、メカスくらいだろう。
真にはマヤ・デレン、そのフィルムが。
死ねば死にきり。/自然は水際立つてゐる。
主観的真実に立脚しない詩人に魂などあるはずがないし、闘いの前段ですでにして変節漢である。

この龍太郎は所謂自民党員であり、美しい日本の自然も日本の如何わしい社会学も、同程度に売れることを、内省なしに、文字通り空っぽで受け入れて、てきとうに作家なるラベルを見せびらかす。すぐに死んでよい主体のない見っぱなしの映像が、固定ショットの文法で紡がれるが、もうほとんどそれはモーションピクチャーではなく、モーションもエモーションもない単なる絵っぽいものがあるような何かであり、そのやる気のない風通し、というか吹きっさらし感が馬鹿で新しい。
天然ボケが天然ボケ主人公を天然に観察する露悪映画であり女性蔑視な観察日記映画。最終的にテレンス・マリックの系譜が堕落した低い神を勝手に肯定し、セルフとして回収され、終わる。

彼女が、最後にまわりの人間を全員殺戮した方がまだ倫理があるという教訓がメッセージとして残る。

渡辺大和の浅薄さと不埒さはいつも通りで、本当にゴミみたいだ。こいつ見てると苛つく、地に足がついてない(それがキャラであり演技と言うなら上手いのかもしれないが)基本、身体にも顔にも、真実はない。
映画館でジャック&ベティもでてきたが、『楽日』『イングロリアス・バスターズ』の方が断然いいのは言うまでもない(全然比較しえないか)。光石研のサービス出演はなぞ。仕事選べよ。

東京のような人間の等身大の悲喜交交の人間模様が、本当にどうでもいい。よくこれで撮れるな。
映像がただアッケラカンとそこそこきれいに流れて行くだけだから
無音のデジタルサイネージでビックカメラ川崎店とかで、ちょっと見るのがちょうどいいやつ。
現代詩手帖とかやばいなぁ。あ、こいつは現代詩手帖には寄稿してないのか。どうでもいいけど。
四月の永い夢も、ファーストショットと独白から爆笑映画であったし、若手とは言え、なんかすごい天然ボケの人が現れた。
映画音響伝 死んで貰います

婆ちゃんの声と、詩と自然、メンヘラなクラシックが超越的に位置づけられ、主人公からは世界と呼ばれるが、その実その免罪符は、その対象へ・からの侮蔑であり、卑劣な構造を保管してしまう。このような構造で、打ち捨てられるのはいつも情動であり、個人の願いであるが、天然ボケは天然であるからひとりで自己完結する。題名の、わたしは、とは、もはや誰でもない主体の抽象化された無価値なAIのようなものだ。ここに詩はない、詩はパウンドのような怒りだ。そう熱情の神、旧約なのである。人のよさは価値にはなりえない。

最後は湖か海か『お引越し』みたいな段取りがあるが、とても及ばない。(そもそもこの田舎どこなんだ?)「おめでとうございます」。
文学など一切ないところで、詩なり、声なり、耳なり、光がキーワードで呟かれるが、内実がなさすぎる。この海は、ミシシッピではない。こんなどうでもいい人間が住む日本は、さっさと開発してメトロポリスにするがいいし、説明的な空ショットの羅列と死者、市井の人々の祈りが、押し付けがましい独りよがりの解釈としてボケまくる。

主体と視線
視線だけの映像メディアには主体がない
主体は視線も持ち得る
そこに切り返しも生まれる
問題は切り返しである
ある映像だけでは足りない
見っぱなしは卑劣である
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