ブタブタ

わたしは光をにぎっているのブタブタのレビュー・感想・評価

わたしは光をにぎっている(2019年製作の映画)
5.0
地方から出て来たヒロインのある時期の体験や冒険を描く、ここでは無い何処かへ行って帰って来る、又は何処かからやって来て帰って行く、という作りの一見ファンタジーにも見えるけど実際はファンタジーでも何でもない、寧ろそういうファンタジーの一切を排したアンチ・ファンタジーとも言える。
主人公だから当然自分から行動を起こして何かを時には世界を変えるとか、しなくちゃならないのかって常々思ってるんですが。
主人公・澪はとにかく喋んないし何にも反応しないしゾンビみたいにモタモタ歩くし見ててイライラするタイプの人間ですが、之は感情を押し殺して台詞ではなく表情や目で語らせる演出とか(それ以前に引きばっかりでこの映画アップが殆どない)ではなくて、澪みたいなああいう人は世の中に幾らでもいるタイプの人間だと思う。
見てくれが松本穂香さんでは無いだけで。
凡そ映画の主人公や、主人公の仲間とかにもなれない、存在するとしたらモブとかその他大勢でしか映画には登場しないタイプの人間だと思う(見てくれが松本穂香さんでなければ)
ネガティブな性格の、無感情な人間が主人公の場合、周りの世界が妙に「優しい」かったり、逆に過剰に意地悪だったりするけど、この映画はどっちでもない。
世の中は映画みたいに良い人間と悪い人間がハッキリと分かる様に出来てないし、澪から見た世界はさほど素晴らしくも酷くもない。
「別に喋りたくねーから喋んねーだけだからお前らほっとけや!」
「処女だろうがなかろうがてめぇらに関係あるか?偉そうに分析してんじゃねえ!不倫野郎!公園の便所でやってろ!」ってのが本音ではないだろうか。
銀次(渡辺大知)にしても澪にとっての世界を変えるような王子様でもなければクズ男でもないしそんなものだろうな、でしかない。
区画整理で銭湯が無くなってしまうのも何かドラマチックな出来事になる訳でもないし、自分の居場所が無くなるのはよくある事でわざわざ映画にする程の事でも無い。
だから過剰な盛り上がりもない。
この『わたしは光をにぎっている』というタイトル(及び元になった詩)から「世界は素晴らしい」とか「世界は輝いてる」とか、
消えゆく日本の古き良き風景や、何かノスタルジックな思い出みたいな物を期待してると完全に肩透かしで期待はずれだと思う。
自分は昔、子供の頃亀有に住んでてこの映画は亀有の隣り立石がロケ地になってるけど余りに変わってなくて驚いた。
下町はずっと下町のまま、スカイツリーって新たなランドマークが出来た事で上野からこっちのスカイツリーを見上げる場所は全部下町の風景みたいな今迄存在しなかった新たな「下町の風景」が出来てる。
だから銭湯1軒潰れたくらいで「消えゆく古き良き日本の風景」とか言ってんじゃねーよ、みたいな声が画面から聞こえてくる。
そんな新たな「下町の風景」から新・銭湯、真ん中に鎮座する澪のシンメトリーの構図から、暖簾を背にやってきた光石研、そして『わたしは光をにぎっている』のタイトルが出てテーマ曲『光の方へ』が流れるエンディングも完璧。
中川龍太郎監督は詩人でもありますが、ホドロフスキー御大の「映画は一篇の詩でありたい」を体現した正に「一篇の詩」の様な映画だと思いました。
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