燦

思い、思われ、ふり、ふられの燦のレビュー・感想・評価

-
少女漫画原作のティーンムービーが量産された時期にちょうど中高生だった。その時は壁ドンだとか顎クイだとか、恋愛の駆け引きが技のようになっていたし、ドSで気難しい王子様と天真爛漫でピュアな女子高生の恋愛なんて作りものっぽくて興醒めだと思っていて、思春期の少女らしく恋愛への憧れを持ちつつもティーンムービーを自分から遠ざけていた。しかし、この作品はわたしが思い描いていたティーンムービーとは全く別物だった。自分と相手が物語の主人公で世界の中心だなんていう陶酔感は全くなく、自分も相手も傷つけないように常に言動に気を遣いつつもそれを周囲に見せないように快活に振る舞う少女が主人公。

周りを傷つけないようにするという配慮はもちろん他人への優しさではあるが、場合によっては他人の期待に添えないことでかっこ悪い自分が露呈して、自分を傷つけるのを避けるためでもある。自分を抑制して誰も傷つかない方法を周到に選択していくうちに、自分を傷つけたくないから自分の感情を抑制するようになっていくあかり。そして同じように親子関係の中で他人を傷つけないために自分を抑制することと,自分を傷つけないように自分を抑制することとを混同するようになった和臣。ふたりは互いに好意を寄せながらも、自分を傷つけまいと相手と正面から向き合うことを避ける。だから、結ばれないふたり。そんなあかりと和臣とは対照的に、正直に互いの胸の内をぶつけ合う理央と由奈。この2組の対照性は構図にも表れていて、理央と由奈は向き合って話すショットが多い一方、あかりと和臣は互いの顔が見えない構図で話す。

「どこに行っても変わらない」という閉塞感と、自分が人生の主人公だという感覚の希薄さと自分と抑制する術とは、都会のマンションという土地性、いびつな親子関係のなかで醸成されたもののようにも見え、彼らの心性の背景が描かれているところにも説得力がある。パフォーマンス的な恋愛ではなく、恋愛を通して、いまここで目の前にいる人と向き合うために、自分を傷つけることを恐れすぎず誠実な行動を自分から取ることを学んで,閉塞感を克服していくさまがどこまでも繊細に描かれているところが好きだった。

傷つくことを恐れずに、自分の思いに誠実に行動すれば、「ここではないどこか」にきっとたどり着ける。コロナ禍でここではない場所があることなんて忘れかけていたわたしにとっては一筋の光のような映画だった。

キャラ化されたパフォーマンス的な恋愛とは一線を画す、人間どうしの恋愛の映画。そう思いたい。
燦