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プライベート・ライアンのtsuraのレビュー・感想・評価

プライベート・ライアン(1998年製作の映画)
4.4
この作品をうまくレビューできない自分がいる。

理路整然としてはいないが、思った言葉を連ねてみた。
その辺をご了承頂ければ。



1944年6月6日

ドイツ側と連合国軍がオマハビーチで史上最大の闘いをする。

第二次世界大戦の中に於いても極めて重要なトピックの一つともいえるノルマンディー上陸作戦。


思えばあのノルマンディーの緑豊かで酪農が盛んであのエトルタの美しい岸壁とそこから望む壮観な海、何より静かな街並みも74年前にこんなにも凄惨な出来事の舞台になっていることに未だに信じられない。(それくらい美しいところだった)


あの日、決死の上陸作戦を戦い抜いたミラー大尉率いる部隊は、参謀長からのある命令の任務に就くことになる。

ライアン二等兵救出である。

しかし、彼は任務の際のトラブルに見舞われ行方知らずであった。

あてもない無い、救援も殆ど無い、そんな過酷な中での進軍を彼らは開始する。


ストーリーは簡潔だ。


しかしそれは浅はかな話ではない。


その奥行きはとんでもない。


戦争映画というのは少しでも方向が偏ってしまうと美談に見えがちであるが、この作品はあくまでアメリカの"目線"に徹している。

それは戦勝国の美化に見えると思われるだろう。
でも考えてみてほしい。
いずれにしても死者が無残に散りゆくあの道理を理解を超えた範疇に美しい話があるのか、ということを。

この作品はただその悲惨さ、リアリズムの立場から徹底して描きこんでいる。
それがとんでもないレベルにあるだけである。

話が飛躍してしまうが戦争には色んな背景がある。
それは政治的背景だけでなく、人間一人ひとりにも歴史があることを意味している。
少なくとも、ミラー大尉とライアン二等兵のやり取りで、エディットピアフの愛の讃歌のやり取りで彼らの心の奥底を知ればこの作品が戦闘シーンに特化した戦争映画の沿線に則ったアクション映画で無い事は明確だと思う。

だから同監督作「シンドラーのリスト」の様な市井を蝕む虐殺ではなく、現代人に欠けてる戦場の恐怖を知れるこの作品こそ実は映画館でもってあの迫力に触れてみるべきではないかと。
例えそうで無くてもこの作品が様々な見地から鑑みても再上映に値すると思うのだが。
私自身は未だまだ勉強不足で拙い故に是非もっと高度な見識ある方がこの拙いレビューを読んでいらっしゃれば享受頂ければ幸いです。

ちなみにそんなリアリズムの具合が凄まじい本作だが、一体どうやって撮影、編集してるのだろうかとずっと疑問に思っていたのだが、今回改めて見直して感じたのはこれは逆に言えば全てのカットに計算された又は見せたいカット割りがはっきりしてるのだろうということだ。(あくまで個人的見解)

もちろんどんな映画にもそんな構図は決まっているだろうが、この作品は偶発的な部分でさえも計算のうちにあるのではないか、ということだ。

1人の兵士が相手を撃ち殺すだけでも、彼らの視線の先を見据えているというか。

そんな戦場のリアルさまでもが組み込まれてるアングルなのだということ。

監督や製作陣、脚本家達のイメージが高い次元で織り成せばこんなにも凄い画が逆に撮れるというわけか。
もちろん、スピルバーグとカミンスキーの異次元の業もあると思うが。


どんどんとこの戦争を知らない世代が自分を含め増えている。

そろそろ、作品の持つパワーをきっかけに議論をしてみてもいいじゃないか。

きっかけなんていくらでもある。

いがみ合い無しで、許し合える世界について論じるべきではなかろうか。

21世紀に突入して早、20年を経とうとしているというのに。
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