燦

アルプススタンドのはしの方の燦のレビュー・感想・評価

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グラウンドのカットを1度も挟むことなくアルプススタンドのはしっこにいる人間たちのドラマにフォーカスするというのが斬新だった。高校生が演劇で表現できることという制約があったからこそ生まれた視点、描きかたなのではないだろうか。発想の豊かさに脱帽する。
4人が横一列に並ぶ構図、被写界深度浅めの(?)クローズアップなどが後半まで温存されているからこその高揚があった。

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図らずも自分の弱くて脆い部分に触れられてしまった。

「練習したって周りより下手なのに毎週練習し続ける意味が分からない」「もう全国大会には出られないし、やらない」
劇中で彼女たちが発した言葉は、わたしも心当たりのあるものばかりだった。

「県ベスト8とかの高校の人たちってさ、なんで土曜日も日曜日も犠牲に出きるんだろう。関東にも全国にも出られるわけではないし、将来につながるわけでもない。ベスト8だろうが16だろうがあとから何も変わらないじゃない」
そんな思いがどこかにあって、チームの友だちの前で口にしてしまったけど、あまり共感は得られなかった。

劇中の彼女たちもあのときのわたしも、社会的な成功・相対的な勝利にとらわれている。それが果たされないのなら、多くの時間を費やす意味などないのだと。部活でいまいち輝けなくとも校内では勉強が得意だったわたしは、学業での成功を拠り所にしていた。だからこそ周囲に認められることに重きをおく性質をなかなか変えることができなかったし、いまのわたしのなかにもその脆さは残っている。「もしわたしが大学に合格していなかったら、先生は・親戚は、いまのわたしにするように接してくれていたのだろうか」なんて考えが頭をよぎってしまうほどにわたしはどこか弱いのだ。

けれど、劇中で少女は言った。「ただあすはと一緒に舞台に立ちたいの。」

持て余していた若さと野性を解放してボールを追いかけることが、ただただ楽しかったのだ。ヒリヒリするような局面を、頼もしい後輩に肩を抱かれながら一緒に乗り切るあの感覚を、わたしは大好きだったのだ。

社会的な成功や相対的な勝利に繋がらなくとも、わたしだけの喜びや修養や充足をもっと求めてもいいはずだ。その先には、「しょうがない」とやめてしまったのでは得られないゆたかさや未来が待っているのであろう。

相対的な特別を諦めて、自分の特別へ。友人がそんな話をしていた。

いまはわたしが育んできてしまった脆さを越えていきたいと思う。「無駄」にこそ大事にしたいものがあらわれるはずだ。
燦