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映画ドラえもん のび太の新恐竜のshowのネタバレレビュー・内容・結末

2.5

このレビューはネタバレを含みます

◆善の概念が正の概念に優先する

 この映画に出てくるのび太が、「わがまま」に思えてしょうがない。「恐竜を自分で育てる」というわがままは、まあかわいらしい子どものわがままだから、それはいい。ちゃんと親に隠れてやってるし。

 でものび太たちが育てた恐竜(キューとミュー)を白亜紀に戻しにいったとき、「あれ?」という気になる。キューがその時代の恐竜たちに受け入れられずにいたとき、のび太は「キューが飛べないから?体が小さいから?」と恐竜たちに叫び、「だったら僕が飛べるようにしてやる!」と宣言、キューをしごいて飛ばせようとする。でも、そもそもキューが恐竜たちに受け入れられない理由が「飛べないから」なんて、わからないのである。恐竜たちはしゃべれないんだから。でものび太は勝手に解釈して、お構いなしにキューの特訓をはじめる。思い込みが激しすぎる。

また、最終的に色々あって恐竜たちをのび太が救おうとするシーンも、理由が「かわいそうだから」「僕には見捨てることなんてできない」というごく私的な(わがままな)正義である。ただ、映画的にはさすがにそんな理由で押し通すことはできないと感じたのか、「実はのび太のわがままは生物の進化に重要な意味がありました」という理由付けがされる。でも、そんなの結果論、結果オーライである。この理屈が通るならば、何が正義かはわからないのだから、なんでも自分が好きなようにやっていい、ということになりかねない。自分の意志を貫くことは大事だけど、法律や社会的ルールを破っていいということにはならないはずだ。でももちろん「どんな悪法でも法律は絶対だ」ということでもない。でもそれは、法律やルールが世の中にとって間違っているという理屈を立てたならば破る意義もあるわけで、のび太みたいに「自分が嫌だから」という理由でルールを破壊する立場には賛同できない。

 もうひとつ。「実はのび太のわがままは生物の進化に重要な意味がありました」という理由づけも、苦しいんじゃないかなあ。キューたちはのび太との交流のなかで、人間の言葉を理解し、人間のような表情を見せ、タケコプターも嫌がらず対応する。こっちのほうが、よっぽどすごいよ。動物の常識をぶっ壊すようなキューたちの動きを散々見せておきながら、いきなり「普通の動物の進化」の話をされても、あの動物らしからぬ振る舞いはなんなんだ、となってしまう。さらに、映画の最後のほうで「他者を思いやる心。そんな感情は、人間だけが進化させた能力なのかもしれない」という台詞があるんだけど、キューやミューも人間みたいになってるよ!と言いたくなる。
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