八畳

スーパー30 アーナンド先生の教室の八畳のレビュー・感想・評価

4.0
インド版ドラゴン桜。主演のアーナンド先生役もどことなく阿部寛に似ている(笑)
それはそれとして。天才数学者が私塾「スーパー30」を作りインドの貧しい子供を無償で教育していく【実話】。9割がマジであった話だっつうから驚き。残りの1割もおそらく「廃タイヤで川下りして塾に向かう」とかあたりだろうし、ストーリーの軸になるところはだいたい実話なのだろう。
日本の教育立身出世モノとこの映画が違うのは
①インドは地位の流動性が非常に低く、生まれながらの身分を受け入れざるをえないこと
②身分の差が使用言語にもあらわれていること
だろう。インドの公的共通語はヒンディー語と英語だが、後者を喋れるものは限られている。しかも英語をある程度喋れたとしても、大抵は訛りが強く文法もあやしい「ヒンドゥー・イングリッシュ(ヒングリッシュ)」だ。つまり、「正統」な英語(カッコをつけておく)を使えるのは、幼いころから十分な教育を受けてきた者だけであり、それが高い身分の象徴にもなっている。インドの上流階級の中には子どもに英語しか学ばせない(ヒンディー語は教えない)家庭もあるらしい。
英語→高等教育の証→高貴な身分
ヒンディー語・ヒングリッシュ→教育を受けてない→卑しい身分
ということだ。
もちろん、高貴だろうが下賎だろうが母語は使わざるを得ない。スーパー30に集った生徒たちがどれだけ知識を持っていたとしても、彼らはヒンディー語やヒングリッシュを使わざるを得ない。彼らが試験で争う上流階級たちはキングス・イングリッシュ(もうクイーンじゃないんだよなあ……)を使え、否が応でも自分と比べてしまう。劇中でも自分たちの言語に引け目を感じ、実力を発揮できなくなってしまう。
アーナンド先生は生徒たちに自信をつけさせる策を練るわけだが、それがなんと「上流階級たちの塾の前で英語劇をやらせる」だ。たどたどしい英語に観客からヤジが飛び、ついには「私踊るわ」のセリフに嘲笑の「No!」が飛ぶ始末。押されて折れそうになる生徒たち、だがその「No!」を逆手にリズムを生み出し自分たちのステージを作っていく(ここまさにインド映画のミュージカルパート)。彼らは叫ぶ「それはお前らの英語。これは俺らの英語」「おかしくってもこれが俺だ」。生徒たちは自分たちの言葉を肯定したのだ。

この映画の内容は立身出世だが、けっして過去の自分を捨てたりはしない。低い身分だからと諦めることはないが、自分の出自をかき消したりもしない。知識という武器を以って未来を切り開いていく。その開拓のスタート地点は今の自分だ。言語は重要なアイデンティティであり、生徒たちがそれを肯定するシーンが入っていたのは本当に良かった。

この映画はアーナンド先生の元教え子が出世しNASAでスピーチするところから始まる。そこで彼はヒンディー語で喋る。もちろん英語が使えないわけではないが、ヒンディー語で喋るのは彼が自分の出自を否定していないからだ。両親だってちゃんと会場に呼んでいる。父の仕事は風船売りだったらしい。仕事内容と名字が同じだし、おそらくカーストで定められたものだろう。詳しくはわからないが、けっして地位が高いものではないはずだ。しかしそれも彼は隠さない。自分に誇りを持っているからだ。

「神よ願わくば私に、変えられるものを変える勇気と、変えられないものを受け入れる落ち着きと、その両方を見分ける知恵を与えたまえ」とはカート・ヴォネガットの小説『スローターハウス5』に出てくる一文だ(私が好きな言葉である)。アーナンド先生の教え子たちはまさに「勇気」と「知恵」を学び、それによって「落ち着き」さえも手に入れられたのだ。
八畳

八畳