白眉ちゃん

1917 命をかけた伝令の白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

1917 命をかけた伝令(2019年製作の映画)
3.0
 監督のサム・メンデスは今作を撮るにあたってTVゲームを意識したとインタビューで答えている。確かにカメラが終始、主人公の背後を付き従い、伝令ミッション完遂までをロールプレイする映像はTPS(三人称視点)のゲーム画面さながらである。またシナリオに於いても主人公の感情や心理といった内的要因よりも襲撃などのハプニングや脇役の情報に基づく目標設定が為され、外的要因によって場当たり的なドラマが展開されるところはビデオゲームっぽい。落ちた橋を渡っているところを狙撃されるシーンや敵兵に追われるシーンなどはQTE式のアクションゲームが頭に浮かんだ。

 個人的には戦場の擬似体験を謳う「ワンカット風」の映像があまり馴染めなかった。カメラワークがあまりにも人工的に思えたからだ。序盤の塹壕の中は、人物の出し入れやカメラの動きの発想を楽しめたが(つまりは没入してはいないわけだが)、塹壕を抜けた後は前述したように外的要因によって展開される為、カメラの動きが次のハプニングを予感させる。予感させることが必ずしも悪いわけではないが単調さに飽きてくる部分はある。撃墜された敵の戦闘機が画面奥で弧を描く。あれがこっちに向かってきて寸前のところで止まる事は安易に予想される。擬似的な戦争体験よりはカメラワークから透けて見える現場のプロダクション意識を楽しんでいた。

 同じく主人公の背後を付き従うカメラと言えば、ネメシュ・ラースローの『サウルの息子』('15)が思い出されるが、あちらの傑作では画面奥の映像や音声がボヤけて不明瞭になっている。それはサウルが知覚しない映像や音声を観客にも共有しない意図があり、故に彼が息子の存在を盲信し、息子の埋葬に固執していく様と観客心理を同期させる効果をあげている。そう考えると『1917』のアトラクション的なカメラワークは主人公の体感を共有するというよりは、あくまでもヴァーチャルな戦場を体験するもののようである。

 眩いばかりの夢幻の夜襲シーンを駆け抜けて、満身創痍のウィルが川に落ちる。川には兵士たちの死体が文字通り死屍累々と浮かんでいる。這う這うの体で何とか川を上がったウィルは朦朧としたまま、目的の分隊へと辿り着く。故郷を想う歌が鎮魂歌のように兵士たちを慰める。ウィルの魂も再び地上に降りて来る。この一連のシークエンスは生まれ変わりの輪廻を意識している。その証拠に川にはチェリーの花弁がたゆたんでいる。「種が落ちればまた新たな芽がでる」と序盤に説話が挟まれた例のチェリーである。

 この映画は「伝令ミッションを成し遂げる」というのが表面上のストーリーである。そうして、監督が祖父の戦争体験から物語の着想を得ているように、ワンカット風演出によって観客に擬似的な戦争を体験させることで戦争の凄惨さの”伝承”が行われているのである。また、「戦場を生きて駆け抜ける」ということは、遺伝子のバトンを後世に繋いでいく”継承”でもある。ウィルが生き残ったことで、赤子にミルクを手渡すことができたエピソードはそう解釈することも可能である。

 しかし、やはりワンカット風を保持する為に生じる制約がシナリオの意図や映像的な力学(モンタージュ技法)をボヤけさせてしまっている気がしてならない。
白眉ちゃん

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