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劇場版 SHIROBAKOのtamashiiのネタバレレビュー・内容・結末

劇場版 SHIROBAKO(2020年製作の映画)
4.9

このレビューはネタバレを含みます

一回目鑑賞時に大変感動したけど、うまく感想がまとめられず、二回目を鑑賞済み。テレビシリーズは放映時に視聴。そのため、忘れてるキャラもいたけど、キャラの多さには苦渋せず。なんとなく、世間で出回ってる評価が当たっていない感じがあって、全体を語りたいので、長文をまとめる。先に総評を言うなら、最の高。

プロット的には、大きく分けると四部構成かなと思う(この分け方だと時間配分に偏りあるが)。
1. タイマス事変を含め、ムサニ没落の事実の提示。同時に、チャンス到来。みゃーもりが劇場アニメ制作を引き受ける決意を固める。
2. 劇場アニメをつくる過程=スタッフ集めと実作業。同時に、「良い作品」をつくるために必要なこだわりを制作の奮闘記として描く。
3. げ〜べ〜う〜との権利トラブルから、みゃーもりがプロデューサーとして覚醒。
4. 公開前に完成しても、満足いかない出来の作品を作り直すことで、「良い作品」に到達させる。「良い作品」に到達したことを、劇中劇のアニメとして示すことで、ムサニが「良い作品」をつくったことに説得力を持たせる。

全体として描かれてるのは、「アニメ制作がビジネスであるとともに芸術作品を生み出すことでもある」ということだろう。

「良い作品」をつくっても、ビジネスとして成功するとは限らない。良い作品でも、スポンサーが金を出してくれるとは限らない(タイマス事変)。良い作品でも、権利関係をクリアしないと上映できない(げ〜べ〜う〜とのトラブル)。

それでは、何のためにアニメをつくるのか。ビジネスとして仕事をするだけではいけない(三女めどぅ〜さ)。好きだからだけでもダメで、自負を持って、後世の道標となるような「良い作品」をつくらないといけない(丸川社長)。しかも、ビジネスとしても筋を通して、それをお客さんに見てもらわないといけない(みゃーもり自問自答)。

劇場版の主人公は間違いなくみゃーもりなので、実は「五人の少女が夢を追う物語」とは少し違っている。確かに、五人とも活躍はある。でも、みゃーもり以外の4人の活躍は、あくまでも「良い作品」をつくりあげるのに必要な活躍。アニメ制作は本当に多くの人が携わり、それぞれ良い仕事をしないと「良い作品」が完成しない。だけど、そうやって「良い作品」ができても、権利トラブルやビジネス上の都合で放送できなくなってしまうことがある。生み出された「良い作品」を観客に届けるためには、プロデューサーであるみゃーもりが踏ん張らなくてはならないし、この頑張りは、脚本・作画・CG・声優の頑張りとは土俵が違う。それもあって、みゃーもりが一人で思い悩むシーンは多い。特に、げ〜べ〜う〜との権利トラブルでタイマスの二の舞になりそうと言うとき、まさに「良い作品」をつくるために奮闘するみんなを思い出し(ているように見えるカットの挿入があって)、涙するシーンは、他の4人とは違う、もっと大きな無力感や孤独があった。そこで一人資料を調べ直し、事態を打開させて、みゃーもりは本当に頑張った。だってまだ26、7でしょ、あの子。その歳で悪徳社長と渡り合うなんてのは、「良い作品」づくりのために自分自身の納得できる仕事をしようという努力とは、やっぱり違うでしょう。

白箱は「お仕事もの」であると同時に、「制作もの」。演劇をつくる演劇、小説を書く小説、漫画を描く漫画、テレビ番組をつくるテレビドラマ、映画をつくる映画、そしてアニメをつくるアニメ。社会人としての苦労を描く「お仕事もの」と「制作もの」が違うのは、自分たちは何をしているのか、何をすべきなのか、何がしたいのかの問い直しをするところだろう。アニメ業界を批判するジャーナリズムだけでも、「制作もの」は成立しないだろう。「制作もの」として成立するには、答えを観客に任せるのではなく、自分たちの答えを見つけて示さなければならない。

劇場版がテレビ版と同じことをしてると言う人が多いけど、「ビジネスとしてのアニメ」について批判的なことを言ってる部分は、ある意味で劇場版ならでは。冒頭がショッキングなのは、単にムサニが没落してるというより、もっと複合的にアニメ業界にとって悪い状況が描かれてるからだろう。アニメバブルがはじけて、どこも金がなく、作品数が減り、円盤も売れない。「良い作品」だったタイマスもスポンサーが金を出さないせいで中止に追い込まれた。あんなに真剣につくっていた『三女』がエロで商業向けに成り下がっている。大手はつまんないものしか作らないし、手堅いと思っていたものでさえも売れないらしい。…と、随所で示唆されているように、金の問題が、アニメ業界を悪い状況に導いてる。こういうのは、アニメ関連商品を宣伝しまくってる深夜アニメ帯の放送ではかなり言いにくいだろう。(現実ではどんどんアニメが増えてて、アニメバブルがはじけた感じはしないので、白箱劇場版はありうる未来図の一つというところだろうか。)

そして、そんな業界の不況にあって、どうしてアニメ制作をするのかを自問自答し、「お金を稼ぐため」という答えには辿りつかず、「良い作品」をつくってそれをお客さんに届けることだと気づく。これって半分ぐらいは「もうビジネス目的でアニメつくるのなんかやめよーぜ」って言ってるようなものだろう。SIVAも、キャラデザとかアイテムからして売れそうにないが、でも、そのラストを見た我々にはそれが「良い作品」だということが分かる。ホントはそういう作品作るのが大事なんだよねと、白箱劇場版は言っているのでは。個人的にはとても感銘を受ける主張だと思う。というか、そういう風に言わないと「制作もの」感がなくなってしまうだろうな。「アニメーターにもワークライフバランスが〜」とかいうのは、現実では確かに重要な問題なんだろうけど、そういうことを前面に押し出した作品はジャーナリズム的なものに近づいて、「制作もの」としては成立しないだろう。

あと、普通に考えれば本作は京アニの事件とは関係ないだろう。京アニの理不尽は、白箱劇場版で描かれる理不尽とは全然似ても似つかない。本作で敵として現れるのは、アニメ制作を金儲けの道具として見ているようなやつらだ。

他にも語れそうなことはいっぱいある。荻窪の杯が歴史の分岐点だとか。舞茸先生がずかちゃん好き過ぎるとか、でも実際見ててもずかちゃんの演技ってすごく泣けるとか。「良い作品」って結局何なのかとか。制作の支えになるのはお客さんの声ではなくて過去に自分の手掛けた作品だとか。まだ考えのまとまらないことも多い。あれこれ考えるのを楽しめるというのは「良い作品」の証拠なのかもしれない。

アニメ制作はいろんな人の人生が交差する場所。つまり、白箱は人生。何度でも見返したいし、続編も希望する。
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