平均たいらひとし

地獄の黙示録 ファイナル・カットの平均たいらひとしのレビュー・感想・評価

4.4
~物量と文明果てる地のローケーション、制御の効かない大御所俳優、陶酔を誘う音楽、迫力とほころびも喰らって生き続けるアートという名の魔物~

大げさに、ぶち上げてしまいましたが、2001年に切り捨てた場面を復元した本編に再度、監督がハサミを入れて、最新のデジタル技術で、映像のくすみを払い、音響を際立たせ、最高規格のIMAX仕様のフル装備の最終形「地獄の黙示録」には、もちろん上映スケールに圧倒されますが、初公開から40年を経ても、映画が、多くの人や物で作り上げられた画に、それを繋ぐ演技と構成と、視覚を増幅する音楽に効果音により作られる立体的芸術であると、まざまざと、知らしめてもらいました。

前の年に「スターウォーズ」から映画を意識して、次の年カンヌ受賞後に本作の初公開版に、「1941」と、当時の先鋭三人の監督を目の当たりにして、幾星霜。独自の見識が、培われて鼻たれだった中学生の頃より、受け取り方も広く深くはなっている、つもりではあるが。


映画撮影を進める演者、スタッフを追ったトリュフォー監督の「アメリカの夜」の終焉、街並みのセットに配されたエキストラや主要キャストが、「用意、スタート」の監督の一声から動き出すや、造り物の「街」が、血が通ったかの様に、息づいて来る。「ゴッド・ファーザー」で得た富を、消息をたった切れ者の捜索を命じられた男が、未開の奥地に向かう河を遡る間に文明支配の現実を知らされる「闇の奥」をベースに、ベトナム戦争の混沌を、海外の辺境地で再現することに、つぎ込んだコッポラ監督が生み出した本作は、先のヌーベルバーグ作品と比べたら、トイプードルと、カムチャッカヒグマ位に、スケールと本質が違うけど。

完成に漕ぎつけるまでの、ロケ地での災難だとか、役に反して太ってしまったり、ヤク中で使い物にならなかったりするキャストに足を引っ張られ、あるべき姿に成長出来ず、「いびつさ」故に、作品の末端へ行くと、見ているこちらの許容力、理解力をもってしても、消化しきれず、すんなりと咀嚼し切れない部分もあるけれど。それすらも、まとめて抱えて、見る者を屈服させる、規格を外れて、狂気で鬱屈しながら、そのアナーキーさに惹き付けられる破壊的生命力を、40年前のまま、息づかせています。

見ていなくても有名な、「ワルキューレの騎行」にのせて、ベトコンを掃討するヘリコプターの場面は、当たり前ですが、作り事を撮ったものです。その準備には、銃撃や爆破に係る名もなき現地エキストラを配置し、調達された軍事兵器を惜しげもなく破壊する段取りだとかの途方もない忍耐を要する作業があって。だからって、「ああ、凄い」って、一過性の打ち上げ花火に終わらず、ロバート・デュバル扮する、ギルゴア中佐の軍規範囲内と見做されてしまう個人的趣味が、レビューの如く壮大で滑稽な様を見せつけると同時に、破壊や殺戮への躊躇いや抑制が、戦争の大義名分が日常で継続されるうちに、麻痺された人間の内面をえぐる。お金と労力が掛けて得られた対価は、世紀を跨いだ現代でも、価値は大きい。

暗殺の対象のカーツ大佐の「王国」を目指して、ベトナムの河を遡る過程では、人間のあらゆる「欲」や、「業」が炙りだされて。その内、「色欲」については、初公開からプレイメイトの慰問の場面は、良く目の当たりにするけれど、その後から、復活したフランス植民農園シークエンスで、主人公ウィラード大尉が、明日どうなるか分からない戦況下で、刹那的な一夜を共にする未亡人が出てきて。その方が、ビクトル・エリセ監督の「エル・スール」に出て来る方と、後で知って再び驚きだけれど、鬱蒼としたアジアのジャングルに呼ばれたうえに、ひと肌脱いでくれて。その神々しさで、殺伐として血なまぐさい作品世界に、一時だけ、潤いがもたらされました。

脱線しましたが、その河を遡る過程で、別に露わにされて行くのが、ターゲットのカーツ大佐の経歴、人物像であります。キャリア出身のエリート軍人で、将来の幹部候補でありながら、わざわざ、パラシュート部隊の現場を志願して、更に「実戦」の場数を踏むのです。そして導き出した、少数の優秀な兵士を統率する事による軍組織の効率運営の論理を具現すべく祖国も家族も見限って、本来敵のベトコンや、周辺国の軍人を抱き込んで、カーツ大佐の「王国」を形成したのです。

自分の責務や能力に打ち込む余り現状を見限って、ついには、敵対する存在になってしまうというのも、例えば、去年の「アド・アストラ」のトミーリー・BOSS・ジョーンズさんの役柄にもある様に、本作のカーツ大佐の人物造形が、後の作品に影を落としていたりします。それを、俳優同業者から、カリスマとして崇められている、マーロン・ブランド様が満を持して、撮影の地に招かれる訳なのですが。

エリート軍人の面影の全くない、緩み切った体型で、ブランド氏が、やって来たものだから、カーツ大佐の実戦理論が露わとなる戦闘場面の「計画」が、ご破算となってしまう。もう、撤退も出来なくなって、体型を隠すべく、暗がりの中のウィラード大尉とカーツ大佐の「禅問答」のような、哲学的談義となってしまった。ここまでの命の保障のない戦火で曝け出された人間の内面の終点、総決算を見せるべきところが、溜飲を下げられない描き方をせざるを得ない分、「ゴッド・ファーザー」の様に、万人に受け入れられる作品として、世に生まれ出られなかったあたりも、映画が、ただの商品ではなく、与えられた環境が、その「生体」を決定づける「生き物」を連想させます。

しかしながら、やっとの思いで「王国」に辿り付いたウィラード一行がすれ違う、川面を覆うように浮かぶ、幾つもの小舟に乗った全身白塗りで人種や感情を消し去ったかのようなエキストラの人達が結構な数で佇む。そして破壊された寺院なのか、住処と見做される水辺に座り込む者たちも、また夥しい人数のうえに、木々の枝から釣り下がった「死体」の人形のものとは明らかに違う実体感。

IMAXの大画面による効果は、前述の創られた戦闘場面の迫力の増幅もありますが、投影面積の拡大で、以前では気にかからなかった箇所にまで目について。優秀な精鋭には見えないけれど、ねじが緩んだ人間が、行きつく「恐ろしさ」は、アリアリとして来る。そして、極め付きは、マーロン・ブランドが、暗闇から囁く、「ホラー」の声の響き。

映画の冒頭、ウィラード大尉に扮するマーティン・シーンは、部屋の中、パンいち姿で瞑想しているかの踊りから、鏡に正拳を喰らわせて、手の切り傷を代償に鏡を割って、地獄の「釜口」を開くかの様でした。そして、河上りの終点では、昔、見た後風呂場で真似た、黒塗りの顔を、水中から川面に突き出して、人間の狂気の「沼」から、抜け出せたかのような見せ方で閉じる。そのどちらにも、背景で流れているのは、ドアーズの「ジ・エンド」。今の打ち込みの音楽とは違って、アドリブ的に、狂騒的な演奏が続いて、しかも、普段聴くよりも格別に良い響きで、歌劇であるかのように、抽象的な独り芝居を引き立たせる。

今回の上映について語る、今のコッポラさんの姿を動画でみると、さすがに、年老いてしまっているけれど、この作品の至る処に、生気に満ちていたであろうコッポラの創意や執念が、宿っている。そして、時が経過して暫くすると、見直した時とのズレを実感することもある中、この「地獄の黙示録」は、撮った当時の感覚のまま、40年の月日を経ても、経過年代分、歳を重ねた、生き物のように、恐ろしく、そして、力強い生命力をたたえたまま、現代を生きていると実感させられました。

相変わらずの拙文にお付き合いいただき、ありがとうございます。
シネマサンシャインららぽーと沼津 シネマ10(IMAX劇場)にて