湯呑

オン・ザ・ロックの湯呑のレビュー・感想・評価

オン・ザ・ロック(2020年製作の映画)
4.4
主人公のローラ(ラシダ・ジョーンズ)は、夫のディーン(マーロン・ウェイアンズ)が新人の女性社員と残業や出張を繰り返す事を不審に思い、やがて浮気を疑い始める。そこで、自分の父親フェリクッス(ビル・マーレイ)と共に探偵まがいの調査を開始。夫を尾行し、浮気の現場を取り押さえようと試みるが、名うてのプレイボーイでもある父親は行く先々で女性に色目を使い、時には奇矯な言動で娘を悩ませるのだった…
という訳で、カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した『ビガイルド 欲望のめざめ』以来となるソフィア・コッポラの新作は、自身が生まれ育った街、ニューヨークを舞台にしたコメディ作品である。『ロスト・イン・トランスレーション』でもタッグを組んだビル・マーレイを主演に迎え、夫と妻、その父親をめぐる人間関係のもつれをユーモラスに描いていく。監督本人はおしどり探偵ものの先駆である『影なき男』や、シドニー・ポラックのコメディ『トッツィー』にオマージュを捧げたと言っているが、身も蓋もない事を言ってしまえば、何となくウディ・アレンっぽい映画である。ビル・マーレイの父親役なんか、いかにもウディ・アレンが嬉々として演じそうなキャラクターだ。
意外な事に、ソフィア・コッポラは本作で初めてニューヨークを映画の舞台に選び、現地ロケも初挑戦らしい。主人公たちが立ち寄るバーやレストランの描写や、主人公の日常を彩る小道具など、セレブな雰囲気とリアルな生活感を上手く映画の中に同居させているあたりは、さすが生粋のNYっ子という印象を受けた。浮世離れしたゴージャスさという訳でもなく、かといって貧乏くさい訳でもない、ニューヨークでそれなりの収入を得ている中産階級の暮らしはこんなものなのかな、と思わせてくれる。
もちろん、ソフィア・コッポラはあのコッポラファミリーの一員であり、生まれながらの超セレブリティなのだと思うが、それとは別にニューヨーク在住のシングルマザーという、生活者としての側面もある訳で、本作はそうした自身のパーソナリティを色濃く反映した作品となっている。劇中で描かれるローラとディーンのエピソードは元夫であるスパイク・ジョーンズとの結婚生活を、ローラとフェリックスのそれは実父フランシス・フォード・コッポラとの関係性を思わせる…というのは穿った見方なのかも知れないが、どちらかといえばコンセプト重視というか、頭でっかちの作品が多かったソフィア・コッポラのフィルモグラフィの中では、本作の地に足の着いた作りは異色の部類に入る様に思った。
ウディ・アレンの作品と同じく、この映画でも登場人物の軽妙な会話がひとつの見どころになっていて、特にローラとフェリックス父娘のやり取りは脱線を繰り返し、実に楽しい。この面白さはビル・マーレイの手腕に拠るところが大きいとは思うが、その他にも恋愛問題に悩む保育園のママ友など、脇を固める人物の造形も上手く、ソフィア・コッポラの確かな演出力を感じる事ができる。
ただ、ウディ・アレンならもっといい加減に、めちゃくちゃな展開にした挙句に最後はきっちりと着地を決めてくれるのだが、さすがにソフィア・コッポラにそこまでの手腕がある訳でもなく、劇中でどんなにふざけた会話が飛び交っても最終的には作り手の目指す結末へと着実に誘導していくので、その辺りは少々堅苦しい感じもした。例えば、腕時計のエピソードなどは作品のテーマと上手く絡めた小物使いとは思うが、あまりにも見え透いている感じがしないでもない。カクテルグラスにポタリ、と涙が落ちる演出とか、今どき少女マンガでも恥ずかしくてしないだろう。良くも悪くも、ソフィア・コッポラという人は真面目なのだろうな、と思う。
ただ、この生真面目さは作品に込められたフェミニズム・テーマとも密接に絡んでいる気がして、作品の後半でローラがフェリックスと激しい口論をする場面では、言わばウディ・アレン的な「女グセが悪いけど憎めない」みたいな、プレイボーイ的なキャラクターに正面切って悪罵を浴びせている。つまり、「テメーは男は生物学的に浮気性なものだとか何とか、自分勝手な理屈をこね回して女の尻を追っかけてるけど、その態度がどれだけ周りの人間を傷つけているのか分かんねーのかよ、このボケナス!」という洒落にも何にもなっていない、クソ真面目な批判であり、それまでの洒落たコメディ映画としての見てくれをこの場面ではいきなりかなぐり捨てている訳だ。フェリックスが娘の豹変に返す言葉もなく「前はもっと楽しい子だったのに…」と嘆くのも無理はない。しかしローラも、そしてソフィア・コッポラ自身もその様な「楽しさ」を享受する時期はとうに過ぎ去ったのだ。
折しも、「#MeToo」運動の余波で、ウディ・アレンが過去のスキャンダルを蒸し返されて新作映画の公開すら危うくなっている現状を考えると、この批判はなかなか意味深いものがあると思う。おそらく、ソフィア・コッポラ自身は長らくハリウッドを支配してきたマニッシュな価値観、時代錯誤的なマチズモに対し、アンビバレントな想いを抱いているのだろう。自身の父親がハリウッドを代表する名監督であるならなおさらの事だ。しかし、もはや時代がそうした態度を許さなくなっている。あちらに付くかこちらの味方になるかはっきり決めろ、という訳だ。彼女がオマージュを捧げた『トッツィー』だって、セクシャルマイノリティに対する配慮に全く欠けた一作な訳で、しかしそうした要素を漂白してしまうと、もはや『トッツィー』という作品自体が成立しなくなってしまう。本作における娘の父親に対する罵倒は、まさにこうした困難に直面している映画人の戸惑いと苛立ちの表出の様にも映る。
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