白眉ちゃん

アフター・ヤンの白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

アフター・ヤン(2021年製作の映画)
3.5
『僕らは今、人間に成ってるところ』


 従来のSF映画では、人間と長く暮らした人工生命体(俗に言う、人間型ロボット・ヒューマノイド)は次第に自由意志を欲して「人間になりたい」と考えるようになる展開が多い。例えば、クリス・コロンバス監督の『アンドリューNDR114』('99)のアンドリューは人間として死ぬことを選択するし、スティーブン・スピルバーグ監督の『A.I.』('01)のデイビットは児童文学の『ピノッキオの冒険』に憧れて、人間になれば母親の愛を得られると信じて長い旅に出る。とどのつまり、人間を模して作られた生命体であるが故に「人間とは何か?」という命題を避けることができないのである。だがコゴナダ監督の新作『アフター・ヤン』においては、劇中で「人間になりたいと思うのは、人間の思い上がり」と明確に否定されてしまう。そして今作の真新しい部分でもあるが、不死身と考えられていた人工生命体(本編の呼称・テクノ)のヤンの方が人間よりも先にその生命活動を終了させ、残された人間側に「人間とは何か?」「人生とは?」を問い考えさせるのである。

 前述したアンドリューもメモリーバンクの中に家族との思い出を映像として記録していた。またデイビットの記憶は絶滅した人類を知る為の貴重な歴史資料として扱われる。私たち人間もまた、機械ほど正確ではないが記憶を集積する生命体である。人間のおおよそが体験する記憶には普遍的価値があり、例えば前人未到の月面着陸のような記憶には歴史的価値がある。人間社会を俯瞰してみた場合、数多いる人間の記憶の一つ一つは地上に散りばめられた観測点の固有データでもあるのだ。そして映画もまた、映像作家の記憶と想像力の産物であると考えれば『アフター・ヤン』はますます自己言及的な映画であると感じる。ストーリーはヤンの記憶を紐解いていくことで”個体”としての「人間」を問いかけるが、「人間になりたいと思うのは、人間の思い上がり」とセリフで一蹴してみせたこの作品がヒューマノイドを使って単純な人間の再現の物語に止まる筈もない。ヤンは「人間として」よりも「中国人として」の自分を度々考えている様子であり、映画は”共同体”としての人間を問うているようでもある。

 この映画のファースト・シーンは家族写真の場面である。この冒頭ではヤンの姿は画面上に現れない。ヤンの姿が観客に提示されるのは、彼の記憶を見たジェイクがこの時のことを思い返す瞬間であり、ジェイクの記憶と合わせることでこの場面の全容が補完されるのである。またカイラとヤンが彼の趣味である蝶の標本収集について話をするシーンでは、記憶の中の声と実際の会話は少しズレて表現される。このように個人・個体にとって記憶は単体でも成立するものだが、共同体においてはそれぞれの視点の差異から多分に曖昧さや違いを含むものである。そしてこの双方向性によって、それこそ光が物体を反射するように、私たちは互いの存在を定義し合う。ミカはヤンのいなくなったベッドを見つめ、ヤンの喪失を実感するがジェイク自身もヤンの記憶と自分の記憶を照らし合わせることで改めてヤンを家族として認識していくことになり、逆説的に彼を「人間にしている(人間たらしめる)」と言い換えれるかもしれない。

 終盤になってジェイクの知らないヤンの過去が明らかとなる。またそれによってクローン人間であるエイダのオリジナル、つまりは彼女のルーツも判明することとなる。ふたりが互いに惹きつけられた不思議を遺伝子的に説明してしまうことは勿体なくも感じるが、「私たちが私たちたらしめるものが何なのか」これは監督の命題なのかもしれない。だが共同体社会においては接ぎ木のように、ルーツを自覚しつつも異なるものと混ざり合いながら生きていかなければならない。母親や地元の建築を愛しながら、人生の可能性を信じて泣く泣く旅立っていった『コロンバス』('17)のケイシーがそう選択したように。
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