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アフター・ヤンのMypageのレビュー・感想・評価

アフター・ヤン(2021年製作の映画)
4.3
初めて訪れた映画館で観る映画として最高でした。モーク阿佐ヶ谷、暗転がめちゃ暗くて良。低音響いて良。机デカくて良。そしてヘイリールリチャードソンはLOVEである。コゴナダ氏は非常にギャグセンが高い。
そしてこれは映画ってことを忘れさせてくれるくらいに映画だったよ。演出とか、思いつきとか、そういうところじゃなくて、世界認識とか、精神性、人間観みたいなところから、ところへ、やってくるのは、映像、つまり光と音と、ささやかな動きとか。うわーっとはみ出してくる感じが、こういうふうにありえる、という、やっぱり絵画とか見たときの感じになってくるのは、つまりいつまででも見ていてよかった。小津安二郎を、こんなに咀嚼して、もぐもぐむしゃむしゃ消化しておる。魂〜。父と母と、子供、が、家、にいる、ってだけ。小津映画を100万回くらい観てるのか、この人は。

古井由吉がいうところのムージルがいうところのエッセイズムの態度。

 さきほど、歴史そのものにも、造り出したものを廃しながら進むという点で、エッセイズムに通じるところがある、という作中の指摘に触れましたが、さらにその歴史に関して、こんな疑惑が述べられています。すなわち、今の世の中では、似たようなことが起るだけであり、ほかならぬそのことが起ったというふうには、事柄は起らない、と。また、ある出来事がそもそも真に起ったといえるかどうか、これが不確かなのだ、と。これは、何かが起れば、すでに出来事として十分である、という立場ではないのです。何かが、ほかならぬある時に、ほかならぬある場所で——地理的のほか、精神的な空間の意味もあると思われます——ほかの似たような出来事とはっきり異なった出来事として、真に起っているかどうか。つまり、それによってイデーが影響を受けたか、改変を受けたか、人の観念がそれによって変化をきたしたか、という問題なのです。
 その疑惑に照らすと、歴史は偶然のつながりでしかなく、なんら決定的なものも持たない、と見える。人もまた普段、歴史というものを、ほんとうのところ、まるで問題にしていない。何か困ったことがあった時にだけ、慌てて歴史にすがる。そんなとりとめもない実情の中にあって、こういう生き方をしてみたらどうか、とこれもひとつの思考の試み、ひとつのエッセイズムなのですが、こんな提案がなされます。世界史の代わりに、観念史を生きたらどうか、と。つまり、現実の事柄は、いまや観念にとって、何も起らないが故に起る。観念にたいする無頓着さからして事柄は起る。こういう事態において、人は目の前で起ることは無視して、むしろ観念の歴史を生きたらどうか、ということです。ひとつの提案、次の瞬間にはまた捨て去られるかも知れぬ提案です。
 さらに、出来事や歴史の前には、人の体験というものがあります。この体験について、人は体験にたいしては所有欲を放棄せよ、とあります。体験を個人的なもの、現実のものとして見るな、と。パーソナルにリアルに見るな、ということです。人物に引きつけて、現実のこととして見るな、むしろ、一般的なこと、想念の上のこととして見ろ、とすすめるのです。
 さらに、精神を獲得するためには、まず自分はいかなる精神も持っていないのだということを確信しなくてはいけない、という。それが出発点だとする。そして獲得されるべき精神は、あくまでもうちひらいた、道徳状のことにおいてはおおむね実験的で虚構的な物の考え方だという。
 こういう、物事を現実よりイデーとしてとらえる態度を、ドイツ語では広い意味での「芸術」というものの内に入れることができます。ドイツ語のKunstは、芸術も技術もふくむ言葉で、人工という意味にもなる。自然の反対語です。また否定にもなり得る。現実にたいする否定、歴史にたいする否定に。
 ところが、こんなことを言う。芸術は否定であるということは、実は逆にいってもかまわない、つまり芸術は愛だといってもよいのだ、と。そのとき、イデーに生きる態度の行く末に、ひとつの異なった境地が予見されているのです。それに「愛の海」という、いきなり無限定の言葉をあてる。この事情をいささか分析すれば、まず、イデーに生きる態度は、芸術に通じる。しかし、もしも人がすべてをイデーとして認識するようになれば、そこにはもはや芸術の要らない、精神の完璧さが生じる。そんな矛盾が内在します。それを踏まえて、こんなことを言う。
  もはやこれ以上は上昇のできない完璧性の観念と、それから上昇というものに基づく美という観念が、この愛の海のなかでは一つになる。
云々。

ファンタジーとしてのモラルが崩壊して久しい現代において、個人の体験と感情の問題は、それぞれの恣意にゆだねられることになった。統一的なファンタジーが失効した状況で、「さしあたりや思いつきではない、ひとりの人間の内的な生がとる決定的な形姿」とはどのように可能であるか、その態度、が「エッセイズム」、、、?つまりそれが「サイエンス・フィクション(=ファンタジー)」と近かった?信仰や神話による大きな物語にとって代わる存在としての?「人間とは何か」という問いをあぶり出す装置としての?エッセイズム的な切り口ではある。そもそもそういうSFは好きなんだ。けどわりと結果的に人間性賞賛みたいな方向性に向かいがち。けどその人間性っていうのがそもそも隠れ蓑としての、暫定的な表面上の概念でしかなくて、どんだけそこをラディカルに(厳密に)疑えるかっていうのがエッセイズムに接近していく。「記憶」というモチーフが鑑賞前はちょっと引っかかったけれど、これは記憶称揚のためではなくて、そもそも「記録」についての話であったし、「家族」っていうのも考えてみれば映画そのもの。実際には家族ではない、役者さんなんだし。共通の歴史もファンタジーもまるでないところで、どんな「家族」が可能か、という試行、エッセイズム?だけどそれがものすごく穏やかな空間であって、荒廃した近未来、などではない、世界観、というものが厳密に、洗練されている、それだけでこれはSFなのか。だって小津映画だよ。
「テクノ・サピエンス」っていうネーミングが秀逸。
一日数秒しか撮れない日記映画、ってもうそれだけで。誰かの日記映画を覗き見るときのなんとも言えない、尊さ。から、映画を見てたの?そう、ドキュメンタリーだよ。泣くほどつまらなかった?ああ。っていう会話。

「文化的なテクノ・サピエンス」
ヤンが生前に家族のそれぞれと交わした何気ない会話。
知識がたくさんあるのに、そういうふうに喋らない、いくらでも知識を披露することはできるが、その人の話すそぶり、思い入れ、その人の感情を優先している?これはアンドロイドに言っても伝わらないかもな、ということを選びながらしゃべっている?共感を求めるのでもなく、今度その映画を見てみたいです、とだけ言う。こいつわかっていやがる。そこまでいくともう「文化的なテクノ・サピエンス」。あるいは、蝶の標本を集める?「正直に言っていいですか」「正直じゃない言い方もあるの?」「いや...たぶんないです」みたいな。アンドロイドの足元を見てしまうような言い方への羞恥。消えてなくなることはどうとも思わない。「There's nothing without nothing.」ほんとうに正直に言うんだ、この〈アンドロイド〉は。っていう。アンドロイドとしてのアンドロイドへの信頼。誤魔化したり、ひねこびたり、お世辞を言ったり、問い詰めたり、侮ったりしないのが彼で、逆にそういうことするのが人間らしい?そうではない。そうではない穏やかさがここにはある。そうではない会話で関係性を作っていくことができる。ユートピアでもディストピアでもない、厳密に制御された空間で。小津映画のような。「家族」という形象、「映画」という形象をとった、エッセイズム。
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