白眉ちゃん

WAVES/ウェイブスの白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

WAVES/ウェイブス(2019年製作の映画)
4.0
「愛し方の難しさ、人生の波間を漂う、それでも両手を拡げる偉大さ」

 Animal Collectiveの「FloriDada」が映画の幕開けをアナウンスする。恋人とドライブする車内、レスリングのコート、Kanye Westの『The Life Of Pablo』のポスターや数々のメダルが飾られた自室、360°視点で主人公タイラーの日常を形成するすべての要素が示され、Tame Impalaの「Be Above It」のサイケ・ロック調の浮遊感と共に、青春期の全能感に酔いしれる。冒頭から10年代のヒットソングが現代の若者像を牽引していく。しかし、些細な亀裂を自己修復できず、若さの脆さを曝け出しながら、タイラーの日常はがらがらと崩れ去っていく。

 肩のケガや恋人の妊娠を誰にも相談できないのは、父親がタイラーに施したマチズモ的思想に基づく教育の為だろう。「男は強く勇ましくなければならない」という教育、父親のそれは黒人を不当に扱う社会や時代の要請に応じたもので、これらは監督のトレイ・エドワード・シュルツが師事したテレンス・マリック監督の傑作『ツリー・オブ・ライフ』('11)の父子関係をも思い起こさせる。またレスリングの活動も競争社会で生きる上での男らしさをタイラーに求め、「仲間やコーチ、自分を失望させるな」と精神面に負荷をかけていく。レスリングの試合中にケガが悪化させ、「逃げたい、やめたい」という想いを抱えながらも口に出せないタイラー。虚な瞳の救難信号は気づいてはもらえず、何度もマットに叩きつけられるシーンは、トキシック・マスキュリニティに苛まれる青年の痛ましさをありありと伝える。男は強がっていなければならない、父親を超えなければならない、社会的に成功しなければ一人前とは認められない、男性なら程度の差はあれど、誰しもこういった強迫観念を抱えているのではないだろうか。タイラーと父親のドラマはマチズモ的思想の受難とそこからの解放でほとんどが説明できる。

 こういった思想に囚われている男性は同時に、「自分は強いから異性(彼女)の好意を得られている」とも考える。アレクシスが妊娠のことを誰にも相談できないと明かした時、タイラーは自分に相談すればいいと告げる。しかし、自分は肩のケガを両親に打ち明けるか否かを彼女に相談したりはしなかった。弱さを見せることでアレクシスが離れるかもしれない危惧があったのではないだろうか。故にアレクシスが勝手に両親に妊娠を打ち明けた時、「自分は誰にも相談できないのに」という捻じ曲がった恨みと鬱積していた負の感情が混ざり合い、憎しみと怒りが湧いたのかもしれない。こうなっては視界は狭まり、自己愛を死守することしか考えられず、傷つけ合う為だけの会話は悲劇を加速させていく。前半のタイラーの物語は破滅的な愛により、Hate (憎しみ)を紡ぎ描いていく。

 本作の音楽面に不満がないわけではない。使用されている楽曲のほとんどを知っていて、半分くらいは収録されているアルバムを持っているくらいだ。だから、タイラーとは同じ10年代の音楽を聴いて来たような親近感がある。しかし裏を返せば、ネットを介して海外の音楽をディグっている私と同じ趣味嗜好というわけだ。海外の音楽が好きな人なら分かると思うが如何にも「Pitchfork的」(10年代に最も影響力を持ったネット上の音楽メディア)な選曲だ。つまり白人趣味・嗜好的なのだ。タイラーの音楽趣味や監督の選曲からは、所属している地域・人種コミュニティで聴かれているであろう音楽や友達間で流行っているマイナーな音楽が感じられないのだ。無論、有名な曲ばかりなので流れていて不思議ではない。ネット世代の若者らしい文脈のない嗜好とも言える。しかし、黒人家庭とその子供を主体としていながら、こういった選曲や直情的に歌詞と感情をリンクさせる演出はあまり黒人監督には見られない。黒人監督ならもう少し生き方や場所のリアリズムに結びつけた選曲をするだろう。監督はテキサス州出身の白人である。主人公と作り手の人種の齟齬は、音楽面だけでなくドラマ面に於いても見受けられる。本作でタイラーに課せられるケガや妊娠、親との不和、酒やドラッグによる転落は黒人人種に限らないティーン映画の定番の要素である。黒人のアイデンティティ問題や人種差別のドラマ性は薄く、私立高校に通う一般的な若者のドラマである。故に普遍的かつ汎用的なドラマになっているわけだが、ただ白人監督だからこそ描けるマルチレイシャルな黒人家庭のドラマが見たかった気持ちはある。前作『イット・カムズ・アット・ナイト』('17)ではそういった主人公と作り手の人種の齟齬がマルチレイシャルな家族構成の設定で補完されており、得体の知れない恐怖への猜疑心に社会的な含みをもたらしていて良かっただけに淡い期待をしてしまった。

 パトカーのサイレンの音が波の音?に変わり、後半はLove(愛)を紡ぐエミリーの物語が始まる。白人青年のルークと出会い、接近する。いくつかのシーンはタイラーとアレクシスのシーンと類似しており、悲劇がくりかえされるような不穏さが漂う。エミリーは父親との会話のシーンでタイラーを悪魔やモンスターのようだと非難する。しかし、父親は彼女に「憎しみを抱くのもまた人間だ」と宥め、「憎しみを抱えたままだと未来の破滅を招いてしまう。だから愛の中で生きなさい(原文を忘れたので勝手に補完してます)」と諭す。エミリーは父親の悔恨の情に触れ、未来を変えるべく行動を起こす。ルークと余命幾ばくもない彼の父親との和解を取り持つのである。それはタイラーと父親の関係を疑似的に取り持つものであり、関係を憎しみの波のまま終わらせず、次なる愛の波を呼び込む為の大切な準備でもある。聖域と化したシャワールームでFrank Oceanの「Seigfried」が「これは俺の人生じゃない。ただの友への愛を込めた別れ」だと語りかけ、生まれ変わりの刻を告げる。エミリーは愛の受け皿となり、男達の抱える憎しみを愛へと転換していくと同時に彼女もまた呪縛から解放されていく。この一連は力強く感動的だが、Frank Oceanの名曲に大部分を担保されており、エミリーの「愛の力」に諸問題がややご都合的に要約されている印象もある。

 エピローグ。家族たちはタイラーの戻ってくる家庭を修復し、愛し方の転換を為そうと試みる。父親は黒人が社会から受ける不当な扱いへの憎しみを教育としてタイラーに施してしまった。タイラーとアレクシスの関係のように愛し方が屈折してしまったのだ。その結果、悲劇が起こってしまった。まるでそれら全てを浄化するように、Radioheadの「True Love Waits」が「信念を曲げてもいい」と歌い、離れかけていた愛を呼び止める。父親は信念を曲げるように、タイラーの前では決して痛みを見せなかった膝を折り、飼い猫の頭を撫でる。愛し方の難しさと共に「こういう愛し方もあったのでは」と不器用ながらも子育てを模索する姿は涙を誘う(マチズモ的思想からの解放)。義母はそれまで踏み込まなかったタイラーの私室に踏み込む。そうして両親はタイラーの視点からも物事を見つめようと改める。この時、タイラーとエミリーの部屋の間のドアが開け放たれているのもまた良い。

 人生には浮き沈みがある。Hate(憎しみ)をLove(愛)が塗り替えてくれるという単純な問題ではない。家庭が修復されてもタイラーは未だ闇の中にいる。30年の刑期がなくなるわけでもない。HateとLove、その波とバランスをとって生きていかなければならない。映画はファースト・シーンの木漏れ日の下を自転車で走るエミリーを再度なぞり、ブックエンドの形で終わっていく。このシーンの時制がいつなのかはわからない。全てが始まる前なのか、悲劇の後か、それとも未来の姿か、含みがあって良い。ペダルを踏み込み、スピードを上げる。両手を大きく拡げ、風を一身に浴びる。転ぶかもしれない恐怖とバランスを取りながら、色と音の溢れるこの世界の限りない可能性の息吹を讃美する。この先の未来が愛に溢れ、美しく開かれていることを切に願って。
白眉ちゃん

白眉ちゃん