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悪なき殺人のWILDatHEARTのレビュー・感想・評価

悪なき殺人(2019年製作の映画)
2.2
『映画というシミュレーション世界』


無縁に見えても、呪いとしか呼びようのない因縁で結びつけられた人間たちが織りなす運命とその結果としての救いのない悲劇。その根底にあるそれぞれのエゴと欲望、孤独感。そこに、張り巡らされた伏線とその回収を加えておく。

このような群像劇には今という時代ならではの吸引力があり、その需要にしっかりと応えるだけの力量があるということも確かに才能の証明と言えるだろう、とは思う。

計算し尽くされた面白さがあるとも言えるが、所謂マーケティング戦略を練った上で創られた映画が長い時間を経た後我々の人生に果たして何らかの爪痕を残し得るのだろうか?
というもやっとした違和感が残った。


さて、ここからはこの映画がもたらす違和感について少し考察を試みたい。

映画の登場人物たちは当然我々の存在を知り得ないが、映画の鑑賞者である我々には神の視点が与えられており、お陰で我々は登場人物たちの行動や相関を俯瞰してつぶさに観察することが可能である。
(映画の中の人物たちは二次元に生きているがそれを観ている我々は三次元の存在なので彼等の側からは我々鑑賞者の存在を知覚することは出来ない。)

この構造を鑑みる時、我々にもまた知覚出来ない高次元の鑑賞者が存在しており、我々の世界を俯瞰的に観察し我々には関知出来ない因果や相関を全体的に把握されているのかも知れないという可能性に気付き慄然とする。

つまり我々が生きているこの世界も鑑賞者から見れば映像作品やゲームのようなシミュレーションに過ぎないのであって、個々の人生の重みについて顧みられることは無いのではないか・・・という不安が、前述した違和感の核心部分であると思われる。


畢竟、この映画の登場人物たちはこの作品に携わった創作者たちによってその人生を弄ばれているだけの単なる記号のように見えて、なんだか空虚な鑑賞後感を覚えてしまった訳である。

それぞれの登場人物にGPSを埋め込んでプライバシーを暴くような愉しさがあるのだがそれ以上でも以下でもないのだな。

現在こうした映画に一定の需要があることは個々の人間の人生を投影する場としてよりも、メタ的な現実の構造を意識させるシミュレーション世界としての映画の可能性に門戸が開かれたということを、時代が告げているのかも知れない。

AIに「偶然」をシミュレーションさせてみたらこんな映画を創るのかも知れないな。

そんな風に考えると新しいタイプの映画なのかも知れない。その点では面白い。
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