白眉ちゃん

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホームの白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

3.5
『青年は胸にいっぱいの感傷を抱えて漸く自分の道を歩き始めた』 


 もとより60年代のアメリカン・コミックの世界でスーパーヒーローと言えば筋骨隆々とした大人が主流だった中、理系オタクのティーンネイジャーを主人公に据えた「スパイダーマン」は異色であった。ティーンらしく学校生活や恋愛に勤しみ、大人になりきれない不安を抱えた等身大のヒーローは若者読者たちから共感され熱烈に支持された。トム・ホランド主演の映画シリーズは『スパイダーマン :ホームカミング』('17)より始まるが、スパイダーマン としての初出は『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』('16)。単独主演映画より先行する形で登場した。「シビル・ウォー」の時点でヒーロー活動をすでに行なっていた為か、過去のシリーズではスパイダーマン の根源的なエピソードとして扱われていたベン伯父さんの死が描かれることはなかった。それによりスパイダーマン のヒーローとしての基本的なテーマであり、かつ有名な至言「大いなる力には、大いなる責任が伴う」が出てくることもなかった。

 「シビル・ウォー」の興奮冷めやらぬままにピーターはトニー・スタークの秘蔵っ子として何かと目をかけてもらう。さらには最凶ヴィラン・サノスの襲来を受け、親愛なる隣人スパイダーマン は宇宙を舞台に死闘を繰り広げた。まだ幼さの残るピーターだが瞬く間にヒーローとしてのキャリアを重ねていく。そして前作『スパイダーマン :ファー・フロム・ホーム』('19)でミステリオの計謀によって殺人犯の汚名と共にその正体が暴かれると、ネット社会の情報網に乗って世界中から毀誉褒貶を浴びせられることとなる。情報やそれに対する反響があまりにも性急に行き来する現代社会の中で、一介の高校生としての実像とスキャンダルによって肥大化したヒーローとしてのもう一つの実像が大きく乖離していく。それ故にピーターが他の世界線からやってきたヴィランたちを更生させようとするのはごく自然の流れだろう。汚名返上や名誉回復、それは即ちキャンセル・カルチャー運動との向き合い方への言及である。スパイダーマン のヴィランたちが元は普通の人間であった設定を上手に活かし、ネット社会における緊密な問題とどのように向き合うべきかを問いかけているのだ。

 もう少しヴィランに触れていこう。これまでピーターは『ホームカミング』ではバルチャー、『ファー・フロム・ホーム』ではミステリオとコミックでもお馴染みの代表的なヴィランと戦ってきた。しかし、MCU版において彼らは主にトニー・スタークを恨んでいたヴィランである。彼らの計画の妨げとしてスパイダーマン は間に入って戦っていたにすぎず、スタークの撒いた種の尻拭いであったと言っても差し支えないだろう。そして、今作においても別次元からヴィラン達が大挙して押し寄せてくるが彼らの恨んでいるピーターもやはりピーター(トム・ホランド)ではないのだ。その点ではトム・ホランド演じるスパイダーマン は直接的なアンチテーゼを持つヴィランと戦ってきていなかったと言えるかもしれない。だが、ここで面白いのは純然たる悪の権化グリーン・ゴブリンだけがこの世界線のピーター(トム・ホランド)の道徳心に対してもアンチテーゼを持ち合わせ、スパイダーマン の根源的なエピソードと「大いなる力…」を誘引することだ。こうして過去のスパイダーマン ・シリーズが一作目にして描いてきたスパイダーマン としての始まりのエピソードをトム・ホランドのピーターは三作をかけてたどり着く。ヒーローとしての重責と普通の人としての幸福を天秤に掛ける、スパイダーマン のドラマの前提がようやく出来上がる。

 トム・ホランド主演のシリーズではホームカミングパーティーや修学旅行といった学校行事が題材として大きく扱われる。『ノー・ウェイ・ホーム』では5年のインターバルを挟んでの大学進学の季節が描かれる。一般的に進学を期に地元(ホーム)を離れる人が多いだろうか、ピーターにも自立の時期が訪れる。しかし、先のミステリオの暴露によって彼を取り巻く環境は大きく変わってしまった。この状況で正常でいられる筈もなく、「世界中の人々がスパイダーマン の正体を忘れる魔法」なんてものに頼りたくなる程に混迷していたようだ。幸いにもこの世界には都合の良い魔術師がいて、最終的にピーターの望みは大きな代償と共に叶う。だが本質的に大切なのは彼がもう一度この世界を信頼できるか否かだ。大学への嘆願のエピソードはまさしく誠心誠意話せば理解してもらえることを示している。顔も実情も何も知らない人々の言葉に振り回される現代社会に正常な機能がまだ残っている可能性を提示する。また子供にとって社会を信頼することは大人を信用することでもあるだろう。ピーター・パーカーというキャラクターには両親の不在というアイデンティティの問題がある。だからこそ、トニー・スタークやオットー・オクタビアスとの師弟関係に広がりを見出すことができるし、彼らから学び成長していくピーターの姿があるわけである。個人的にはファンを喜ばせるサプライズやメタ発言に留めず、これから社会に飛び出す青年に対してキャンセル・カルチャーを軸に別の世界では悪役だった大人や先達のスパイダーマン から人生の歩み方を継承していくドラマを真っ向から描いて欲しかった気持ちがある。無論、憎しみに囚われるピーターを止めるシーンなども存在するが素の高校生としての真摯な対話シーンが見たかった。それでこそ内輪のりの多い地元暮らし(ホーム・シリーズ)に綺麗なピリオドを打てたように思う。

 今作には過去シリーズとの繋がりや役者のプライベートを匂わせるセリフなど、”関連性”のファンサービスが多く出てくる。それは別にこの作品に限ったことではない。映画を監督や俳優のキャリアやジャンルの文脈、時代の運動などに沿って観ることには常にそういった発見がある。その楽しみが多くの人に共有されたのは良いことではないだろうか?ただ、情報を食わせているだけのストーリーでは物足りないのも事実である。今作でスパイダーマン の正体を知った人々の反応は、サム・ライミの『スパイダーマン 2』('04)で同じくスパイダーマン の正体を知った人々の反応と比較することができるだろう。あくまで作品内の世相の対比ではあるが、この20年近くの間に社会はどう変化しただろうか。私たちも少なからず力を手にしたかもしれない。責任の程はどうだろうか。これらを情報社会への批評ととることもできるが、MCUはもはやファンサービスだけでも成り立つほどに成熟したと言った方が正しいだろう。ただ『エターナルズ』('21)をはじめ、Disney +のドラマシリーズなど、これからのフェーズ4にどれだけの一般層がついてきているのか気掛かりではある。

 情報が過剰供給される社会において加速度的に肥大したヒーローの重責を前に、物語は全てをリセットするよりほかなかっただろうと理解する。ピーターがそれを受け入れるきっかけがMJの額にできた小さな傷というところがスパイダーマン ・シリーズらしい感傷で好きだ。正直なところホーム三部作に、将来的に振り返って郷愁を誘うほどの普遍的な瞬間があった気はしないが今作でようやく根源的なエピソードを終えることができた。権利の都合上、四作目が作られるかどうかわからないらしいが(絶対作られるでしょ)アットホームな内輪のりや展開の羅列なだけのストーリーはほどほどにして、スパイダーマン を掘り下げる独自の物語を期待したい。そして、その準備は今、万全に思える。
白眉ちゃん

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