SatoshiFujiwara

リチャード・ジュエルのSatoshiFujiwaraのレビュー・感想・評価

リチャード・ジュエル(2019年製作の映画)
4.3
映画的な脚色の施し加減は知らんれど、冒頭からしばらく、リチャード・ジュエルは「底辺生活者」(故意にこういう書き方をしている)であるが故か、その反作用としての法と正義への潔癖なまでの指向性がある種の認知の歪みへと行きかけるさまを描いているし、のちにジュエルの弁護人となる誠実なワトソン・ブライアントもやさぐれた不良かと思わせるような荒っぽい言動を行なう人物のように見える。

これは実話ゆえリチャード・ジュエルが無実であったことは皆知っているけれど、それを逆手にとって「ひたすら善良ないち市民が無実の罪に陥れられんとする」みたいな単純な描き方は丁寧に回避され、観客自身に単細胞的&脊髄反射的な決め付けに対して自問自答せざるを得ないような倫理性と多層性を伴った作品として提示されている。

さらに敷衍して言えばアトランタの新聞の女性記者であるスクラッグス。彼女はFBIがジュエルを第一容疑者と見ていることを突き止めて一面にすっぱ抜き、しかしのちに自らが現場でジュエルの無実を確信、さらにジュエルと母ボビ、ブライアントの記者会見ではボビのその息子の無実の訴えに涙すら流していたけれど、つまるところスクラッグス記者は一般大衆が食いつくような扇情的なネタを掴むことにご執心であり、一見ジュエルの無実を確信して良心に目覚めたと見えて、しかしそれをも「FBIの勇み足」として記事のネタとしか考えていないように見える。FBIが第一容疑者としてジュエルの捜査を開始したとして、またそれが勇み足だったかも知れないと発覚したとしてもスクラッグスは「真実を伝えるのがジャーナリストの使命だ」との大義名分の前にはFBIに責任転嫁をするであろう。前にFBIのトム・ショウ捜査官に情報のリークを頼んだのと同じで、結局改心などしちゃいないのだ。

冒頭に書いたように、どこまでが脚色なのかなど知らないし、そんなことは当の本人(たち)にしか分からない。いや、当の本人たちにしたところで立場によってそれぞれの「事実」は異なるだろう(最後に至ってまであのFBI捜査官は「やっている」と吐き捨てている。その理由は? これもまた認知の歪み? 彼なりの「事実」)。イーストウッドはそんなことは百も承知で、一見「実話の映画化」(だが実話、とは何か…?)みたいな外見を見せる本作を極めてフィクショナルにも捉えられるように撮り、だからこそ現実の複雑さを観客に考えさせるような作品になっているのだろう。まったく老獪なワザである。

(余談)本作でスクラッグスがFBI捜査官に情報リークと引き換えに「枕営業」を持ちかける描写、当のアトランタの新聞社は「そんな事実はない、捏造だ」と主張して法的手段に訴えるみたいな話になったようで。その後の展開は知らんが。仮に脚色だとして、脚色=フィクションだからこそ力を持ちうるのが映画(や小説、演劇etc)だろうに。そりゃ立場はわかるけどさ。
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