狂王キシリトールヴィヒ2世

すばらしき世界の狂王キシリトールヴィヒ2世のレビュー・感想・評価

すばらしき世界(2021年製作の映画)
5.0
 窓から見える塀と降りしきる雪から始まり、青空を写す魂召されショットで終わる。狭さと広さという対比、被写体が上から下へカメラが下から上へという対比。静的な落下と動的な上昇はあるいはこの世に生まれ落ちることと死への階段を登ることの隠喩であるかもしれない。
 刑務官に送り出されると、どこまでも続くかにみえる広大な北海道の道を前進し、刑務所に永遠の別れを告げる。しかしその決意は路線バスという決められた道を進む狭い箱の中でなされる。この状況はこれから待ち受ける娑婆の生活を象徴しているかのように映る。
 どんな深読みのしすぎも許容されるだろうと思えるほど、全編が示唆的で、芯の通った不確かさに満ちている。
 この映画を現代で鑑賞している私は『自転車泥棒』を通過しているため、この映画がたどる現代のifのみせる喜びと閉塞感は、強い時代性を持つことになる。不寛容やセーフティネットが絶えず議論にあがりながら、それらが言葉として一人歩きしている感のある現代への、アンビバレントな感情がわく。
 前半、過剰なまでのゆるい演出にこの映画と役所広司に気を許してしまう。気を抜いてしまう。こんなゆるい映画なのかと思わされる。しかしそんなに甘くはない。
 線路沿いでチンピラに絡む場面で我に帰る。人間の本質、人が事物に関わる動機の不確かさ。あるいはやはり結果にしか意味はないのだろうかとも。
 終盤、花壇いじりの青年の登場により暴力はやはり絶対に正しくないという気持ちが確立される。そして直後、起きていた可能性のあったそれは本当に正しくない行いだったのだろうかという全く逆の思いが去来する。そしてその後花壇いじりの青年の見え方もゆれる。
 我慢するということ、その深呼吸が、逆説的にそこにある暴力を確かなものとして浮かび上がらせる。そしてその暴力の不在(予感)は暴力から一歩引いた視点を持っていた者を、暴力の欲求へ呼び込む。
 そこにみえる正義感なのか怒りなのか、具体的に何なのかはわからない強い感情に触れて、比喩ではなく脚が震えた。
 客観的評価が不可能である中で、役所広司演じる三上は子供達にとってはただ楽しかった思い出になるのかもしれない。
 学んできたもの、経験、あるいは立場や年齢。どう描くかだけではなくみる人がどのような経緯でどのような視点を持ってこの作品に触れるか。作品として画面上に写るものの答えは、ヒントを残しながらも隠匿され、そこに自分の人生を上から重ねて投射する余地が残されている。あるいは仲野太賀が映画と私を媒介する。
 わからないからこそ生きること世界を認識することは面白い。しかしどのような形で事物を認知した場合であっても、結局は他人が好き勝手に口にする噂話を耳にするのとそう違いはないという無力感もまたある。
 すばらしき世界としての側面だけを享受することの美しさを知り、そうせざるを得ないという理屈を理解しながら、ふと泣き叫びたくなる。すばらしき世界をより良く生きていくはずだったろうという叫び。あるいはそんな嘘くさい善良な人間みたいに人生を全うして何になるんだという叫び。
 偽善などではなく人と人が助け合う事、人に必要とされる事は、とぶ。やめられない。
 たとえ経緯や動機は様々で、善性のなせるものではなかったとしても、アパートの前に集う人たちの結果としての親愛の情、悲嘆に意義を見出したい。
 数々の示唆的な画の中で特に、嵐の中でゆれる世界から忘れ去られた白い肌着が忘れられない。