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花束みたいな恋をしたのtsuraのレビュー・感想・評価

花束みたいな恋をした(2021年製作の映画)
4.0
例えば今まさに。


誰かに「なんかオススメの映画ある?」そんなありきたりで平凡な質問に私はこの映画を薦めることだろう。

そんな映画だ。

意外と軽くサクッと、すんなり見れちゃう。

でも見た後、その余韻は暫く続く。

色んな恋愛をした者、未だの者、みんなの心に響く作品。


結果論、とても良い映画だったのだ。


だからお薦めしたくなるのだ。


しかしながら。

全く持って点在する感情を、ストーリーを、自分の言葉に咀嚼して上手く吐き出せない。

そこで、なので、ただ思った事を書き留めてみることにした。


・ジャンル越境のカルチャーの宝石箱
→あれこれ、混在するジャンル越境のカルチャーやらをごちゃ混ぜにしてるところはホントにツボった。2人の初デートのミイラ展ですら自分に照らし重ねれる部分があり終始最高の気分だった。
ブラジルでのワールドカップのエピソードも好きだけど。
これも冒頭の押井守の出演段階からスイッチ入れますよ!の合図だったのだろう。

・牯嶺街少年殺人事件と奇跡のかなたか
→これ、彼等の映画愛を物語っているキーワードになってると思っていて。
2人は前者と後者、前者はタイミングを逃し後者は間隙を縫って鑑賞したが、もう愛が熱を帯びてない事を示唆するデートの中、見た作品であった。

この作品の2つはどちらがどちらを見たかったのだろうか。
答えでは無いけど、確かに麦はその座席に座っていたが、まるで心此処に在らず。
だけど、彼の中で実はこの作品とその日のデートを通して2人の関係性、立ち位置にも気付きだしたのではないだろうか?


・セロトニンとオキシトシン。
→まるでホルモンの授業みたいだけど。
パートナーへの愛=心の平穏と熱情放った恋との違い。2人には夫々体に保ちたかったバランスがそもそも違うかったのでは。
幾らか垣間見るシーンの中で空気感違うな
と後半になるにつれ、あった。


・麦の発言
→2人が互いを凄く愛おしくあって、同棲をスタートさせるのだが、その引っ越し完了してベランダでくつろぐシーン。

麦は「絹さんとの現状維持が目標…」
という趣旨の発言をする。
この時点で私はもしかして、2人の考える現状維持は違うのでは?そう思っていたら矢張りそうだった。(何が?何処が?映画をみてね)

・麦の根底にあったもの
→これは恐らくだけど堅物な父の反面教師が絹と出会った時の麦ならば、就職後の麦は言うならば父の背中を追っている様な変貌ぶりであった。察するに彼の根底にはそもそも男性優位的な或いは男性はこうあるべき、みたいな固定観念があったのではなかろうか。彼は好きな事の為に没入していたが、暗澹とした自分の将来を憂い現実回帰する。そこから彼が今度は仕事に没入していく様はまるで好きな事に没頭するというよりはそれらを忘れようとしてるかの様で。さらに言えば彼はフェミニズムとまではいかなくてもニュートラルな姿勢であった筈なのに、遂には絹を1人の最愛の女性から、ただの結婚候補の家で家事、育児する"女"に変貌していた。
それ故に彼の価値観はどんどんと古風な価値観を露呈していき、それが遂には絹とのギャップを生んでしまっているように感じた。さらに話はやや飛躍するがそんな男女間のギャップで言えば先輩の死に対する向き合い方などは最たる例。


・寧ろ絹こそが実は現実的だったのでは。
→これには幾らかの反論あると思うが、麦との同棲後、彼との生活をしていく中で、実は彼女こそが麦の内に秘める温かさを知っていて、彼との距離感や生き方を模索していた様に思う。彼女の発言や麦との喧嘩一つを取ってしても男性の身勝手さや幼稚な部分と向き合うのはいつも女性だし。
確かに男女間の差は明確に浮き出されているけど、なんていうか麦の方も現実と言えば現実なんだけど今ある生き方には思えなかった。そういう意味で言うと経済力こそちょっと不足がちだけど、等身大の生き方という意味ではある意味背伸びしていない絹の方が同じ目線に見えた。
そんな彼女も彼の凝り固まった心を解そうと色々頑張ってみるが、いよいよ価値観に圧倒的なズレを感じだす後半は泣けてしまった。


で、なんか纏まってる様で全く纏まっていないが笑

けれど、どうだろう。

2人は今を精一杯生き愛する事に全力だった様に思う。(とりわけクライマックスは号泣必至の決断で)そこが伝わるこの作品、久々に邦画のあたたかみの様な物も一部に感じれた作品であったようにも思えた。

そう、なんとなく言葉には出来なかったけど…あまりにも愛に溢れていた。


ありふれたストーリーだとも思うが、この作品の場合は"ありふれてる"のではなく、より身近なところにある物語なのだろう。

でも確かに2人は2人だけにしか分からないかもしれないがそこは確かに世界の中心だったのだ。

でも2人を阻むものには様々な障害がある。それを乗り越えれるか否か、なのだ。

それらの捻れを私達がたまたま映画を通して垣間見ただけで、この物語の主人公は絹と麦…或いは誰かと誰かのロミオとジュリエットであっても不思議ではない。



締め括るにはあまりにも遅い挿入なるが映画は2人の独壇場だ。

菅田将暉と有村架純。

この2人がスクリーン全体で恋の模様を昇華させている。

私は今や娘を持つ身だが、この2人の恋愛を最初はむず痒く見ていた筈なのに、展開に応じて自分の現状、別れた人との事、想い人の事。
様々な思いを物語に重ねて脳裏に映し出された自分の想いとまるで向き合ってた様だった。

そのシンクロ感も狙っているのだろう。

先述したけれど、クライマックスの展開が見えてきてから涙が止まらなかった。それは自分と絹と麦の物語がどう着地しているのかを理解した瞬間でもあった。

見る年齢で恋の模様は変わる筈だし、体験した場数で受け取り方も変わるだろう。

でも、それで良いのだ。

恋も映画も十人十色なのだ。



このコロナ禍、未来がまだまだ暗澹としてる現代で私達はもっとこの普遍的な価値観に回帰すべきではと思った。
それこそ人と人との繋がりや温もりやその想いを断ち切るウイルスではあるが、この作品を見てると闇雲にそんな個々人の生活や営みを守備固めするのではなく、もっと大切な人との時間を大切にしなければならないなと感じさせる、さながら現代のビタミンであった。


この映画は春の便り。

だけど人生はそんなに甘ったるい側面ばかりではないよと。

まさに月に叢雲花に風。
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