まぬままおま

×(かける)4のまぬままおまのネタバレレビュー・内容・結末

×(かける)4(2008年製作の映画)
4.5

このレビューはネタバレを含みます

序盤に直子が廊下でバスケットボールをドリブルし祥子に接近するシーンがあり、そのアクションにもう映画のフィクションとは何たるかが示されていて脱帽です。ドリブルの振動音は心臓の鼓動と連動し、祥子の心を撃つ。

万田監督が、濱○作品を反省映画と否定的に捉えるのは(あくまで私の感想です)、主人公の語りが先行して、それがいま生起している出来事を反省や考察の対象にし、エモーションや物語としての〈生〉が失われていること(それは万田監督も言っているはず)だと私は整理している。それを踏まえると本作は、アクションによってエモーションを惹起させ、物語の意味を生成しているから凄いんです。

例えば「渡す」という運動について。
祥子が踊り場でプリントを散乱させているシーンでは、祥子がいじめられていることの明示と、直子が共にプリントを集めて渡すことが挫折し、祥子と直子の関係が上手くいってないことも描かれる。それは、祥子は直子のことが好きであり、だが直子は別の男の子のことが好きであるという複雑な心境と状況だからなことが後に示されるのだが。
その後、祥子が再びいじめられロッカーの落書きを洗い落とすシーンでは、男が登場し、そこでぞうきんを「渡す」というアクションが行われる。それは祥子が男と関わり、新たなドラマを生み出すきっかけになっている。
さらに最も重要と思われるチケットを渡すという運動は、直子から祥子へ、祥子から男へと続く。その際、生起する物語は、行ってほしくないといった欲望やそれでも行かないといけないという葛藤など、登場人物のエモーションを十全に語っている。このように日常の行為を映画として現前させ、意味を生成させることでドラマを生み出し、関係性を変えていく。それが私たちの可能性を開くことになる。嗚呼、これが映画だ。

直子が裸体をカメラに晒すとき、それは女としての身体をどう引き受けるか、彼女の最も実存的な葛藤が示されている。直子は確かに男が好きなのかもしれない。だが一抹の性衝動は不発に終わり、祥子が好きなのかもしれないという予感が頭を、身体を過る。

夜のバスケットコートで4人が集まり、直子の〈生〉の引き裂けを目撃するとき、私たちにも直子と同様の事態があり得るのではないか、また反省とは別様にあり得たと、可能性が駆けていくのである。