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三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のsaltのネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

いろいろまとめたのでシェアします。

三島由紀夫

【概要】
全共連と三島由紀夫との討論。
戦前の天皇親征と戦後の直接民主主義にはほとんど政治概念状の区別がない。全共連が天皇を認めた上で反体制を名乗り上げてくれれば大いに協力した。反米愛国主義的思想。
討論から1年半後、三島由紀夫は憲法改正のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自決をした。

【芥正彦(あくたまさひこ)】
芥(あくた)正彦(まさひこ)のソシュール的観念は時間と関係を消し去ったカオスの上に新たな時間と関係を作り出す不自由な世界の創造であり彼自身の目的は価値観を含めた観念の発展と今後の発展を後押しするための一つの行動であるように感じられる。(個人的には他者論を展開したレヴィナスが思い起こされた)
三島由紀夫の共産主義に象徴天皇制を加える取り組みは芥(あくた)正彦からすれば後退であり幻想であるということだ。
日本の戦前天皇制が持つ問題点は様々だが、その幸福感は実際にその時代を体験した三島由紀夫らにしか分からない。
しかし当時の時代では天皇制については散々議論されてきたテーマだ。三島由紀夫の天皇再解釈であっても芥正彦からすれば退屈で帰ってしまおうとなるのだろう。(後半の三島由紀夫の開き直りとも取れる言動もある)

【三島由紀夫の訴えとは】
討論から1年半後、三島由紀夫は憲法改正のため自衛隊に決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自決をした。
この自決は絶望や神経衰弱といった観念で捉えるべきではない。それは楯の会 篠原祐の言説から読み取れる。
武士道的な自分の意思を死んで証明する切腹だと受け取るべきだろう。

三島由紀夫の訴えとは?

三島由紀夫を客観的に見た時何が浮き上がるだろうか。
①エリートとしての実績と肩書き,
②文学においての成功者という肩書き,
③反体制的態度,
④天皇制自体を自ら体感した存在であること,

①~④という歴史がありながらも最終的には象徴天皇制の肯定と武士道的自己主張という行動をとった。これはなにを意味するだろうか。

「象徴的天皇の名において反体制を作り上げる」ということだ。

「天皇」という言葉の意味を三島由紀夫はソシュールの文脈でいうシニフィエ(はたらき)に使っているように思われる。代替的なニュアンスとしては「日本社会全体の救済概念」「日本人を突き動かす無意識的エネルギーの源泉」などがあげられている。

古臭い日本の観念を焼き尽くす「焚祭」は、雑な破壊(スクラップ)であり、発展(ビルド)に対するわかりづらい良い側面を消し去ってしまう可能性も含んでいる。
例えば現代日本で言えば、ブラック企業問題やブルシットジョブ問題を解決した時に、溢れる失業者や共同体的快感の喪失があげられる。

ソシュールは言葉によって物事が区別されると考えた。構造主義では共同体の「価値観」によって言葉が形成(物事が区別)される。その価値観のアップデートのための破壊と想像を目論む全共連(もしくは芥正彦)。

結論、三島由紀夫は本質的にアップデートに持ち込むものとして天皇の''神聖''を差したのだろう。

天皇自体ではなく天皇の神聖を指したとする根拠には、三島由紀夫の「3時間微動だにしない天皇」エピソードから伺える。また、「天皇から銀の時計を受け取った」エピソードから彼の中に「時間」と「関係性」の存在(価値)を植え付けられたのだろう。
さらにこの価値の布教が三島由紀夫の訴えであり「私は論理的には敗北していない」発言につながるのではないだろうか。

【個人的な感想】
天皇の神聖は確かに戦前時代では一種の共同体的快感を民衆に与えたのだろう。しかし、のちの天皇が神聖であるかどうかは保障されない。キリスト教でもいうように、神は1つであり偶像崇拝は持続性がないのではないか。
アニメ「推しの子」では「嘘は最大の愛だ」という主張がなされるが、
嘘というものの神聖を再び取り戻し、日本天皇を唯一神(創造主)へなんらかの方法で昇華・あるいは譲渡できないだろうか。

それが「日本人の積み重ねてきた歴史と尊厳を守りながら新たな時代を作る架け橋」になるのではないかと思う。

ロシアや中国の共産主義は現在のマルクス派では「国家資本主義だ」と揶揄されることもある。人口2万人〜10万人で1つのコミュニティのインフラを完結的に自治するコミュニズム的な現代的マルクス思想は個人的に注目するところだ。

そういった反グローバリズム的な観念と同時に、地球規模の問題である気候変動の問題や(フェアトレードの文脈での)搾取の問題等々も見過ごすことはできない。こちらについては統一的に(全体的に)資源を集めて投資するというグローバリズム的な観念(またグリーンニューディール的観点)も必要である。
そういった点で、数十年前の右派左派の区切りからグローバリズム/反グローバリズムの考えに移行した現代において、一つの解決策とはならないだろうか。
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