ケンヤム

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のケンヤムのレビュー・感想・評価

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「解放区」という概念が、全共闘の暴力革命運動を支えていたとするならば、三島由紀夫という運動を支えていたのは「天皇」という概念だった。「解放区という概念」に対する反動として、天皇を事物として定義するのでは無く、日本という土地、時間の流れに眠る無意識的なエネルギー自体を「天皇という概念」に委ねて、三島由紀夫は三島由紀夫的暴力革命を成就させようとしたのではないか。

「私は暴力を一切否定したことはない。」
芸術は暴力だ。芥正彦が言っていたように、芸術表現は暴力と似ていて空間を原初的な状態に戻してしまう。地獄の黙示録でカーツ大佐がしたように、前衛的な言葉や思考は表現として昇華された時、言霊となって空間を飛び交い暴力的にその空間を原初に還してしまう。
その時の解放感。時間や空間、関係という概念そのものがなんの意味もなさず、そこには「国」もないし「私」すらない。
そんな空間があの東大駒場キャンパス900番教室には充満していた。
「日本国という枠から抜け出したいと僕は一向に思わない」と三島由紀夫は言ったがホントウか?
最後大芝居を打って、腹を切ったじゃないか。それに「ついにやったか」と盟友芥正彦。
なんという関係性。関係という概念の無効化した関係性。

解放区をつくってみたい。
芸術という暴力を使って解放区を。

このドキュメンタリー映画のとてもいいところ。革命は終わってないということをちゃんと言ってくれていることだ。
「お前の国ではそうだろ。おれの国では違う。」
解放区という突如立ち現れる暴力的な空間は、今の日本に立ち現れる隙間すらない。
権力はその隙間をどんどん埋めていこうとする。隙間を作らない。が、俺たちはもしかしたら権力者の死角から解放区を立ち現らせることができるのではないだろうか。
権力の監視の目の隙間では無く、死角から。
芥正彦の如く。三島由紀夫という突如現れたトリックスター。
三島由紀夫は、天皇主義者を自認し、トリックスターとして、自衛隊市谷駐屯地で三島由紀夫を演じ切った。
あの時、きっと国中が解放区だった。
腹を掻っ捌いた文豪に一瞬誰もが呆気にとられたはずだ。
おれも呆気に取られた民衆の構成する解放区をつくってみたい。
まずは二十人規模くらいのやつ。
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