ラウぺ

無頼のラウぺのレビュー・感想・評価

無頼(2020年製作の映画)
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下部に追記あり

戦後まもなくの少年時代から昭和の終わり頃までのヤクザの一代記。

井筒監督初鑑賞。
『仁義なき戦い』をやってみたかった、との監督の言もありましたが、正直に言って『仁義なき戦い』と比較するのもおこがましい残念映画。
点数を付けないのが武士の情けか、以下、なぜ残念に思ったのか記憶しておくために書いています。
不快に思われる方はスルーしてください。

ヤクザ映画は普段観ないのですが、『仁義なき戦い』はド嵌りするほどのめり込み、全ての作品を鑑賞しました。
一方ギャング映画はヤクザ映画よりは良く観ていますが、基本的にこの手の映画は悪事で生活しているものの、その道なりのスジを通す男の姿が物語として魅力的であるからです。
まずもって本作は主人公の男にそうした魅力がまったく感じられない。
飄々とした物腰は悪党面した有象無象とは印象が異なるのですが、なぜこの道に進んだのかといった描写はなく、仁義を通すために何か大きな決断をするとか、葛藤があるとかいう描写はありません。
なぜ子分がついていくのか理解できず。

全体的な物語の構成も短いエピソードをコラージュしていくごとに数年単位で時代が移り、時が経つにつれて組が大きくなっていく過程を羅列するのみ。
個々のエピソードも敵対する勢力が何か仕掛けてきてその対応、という図式のワンパターンで、まるでドラマの総集編を見ているよう。
組の将来や存亡に関わる重大事ではしっかり尺をとってその顛末を描かないと、登場人物たちに感情移入することができない。

また、場面転換や次のエピソードに移るときのカットの雑さに驚く。
更に飲食店などの周囲の群衆のどうでもよい会話が突如としてサラウンド側のスピーカーから大音量で明瞭に聞こえる部分が何度もあり、こうした音響設計にどのような意図があるのか理解に苦しみます。
監督の舞台挨拶を聞いていると「細けえことはどうでもいいんだよ」という方なのは分かりましたが、他の井筒作品を観ていないので、これが井筒作品としてのアイデンティティ=監督のスタイルなのか、それとも年齢を重ねて自らの描きたいところ以外の細部には注力しないということなのかは分からず。
ただ、こうした技術的な稚拙さが許容されるにはそれを上回る作品全体としての魅力があってこその話だと思います。

また「無頼に生きる者の生きざまを描いた」という触れ込みはまさにその通りなのですが、
全編に漂うヤクザへのなんの臆面もない全肯定な姿勢は、共感以前に本作はヤクザの宣伝映画なのか?という印象を拭いきれず。
主人公の妻もまるで極道に生きる主人公が普通の会社員か何かでもあるかのように気軽に付き合い、極道の妻としての葛藤をまったく見せないところも能天気に過ぎないか?と思うところ。
広能昌三の極道に生きながら無用な争いや不毛な闘いに対する怒りや虚無感、ギャングになることに拒否感を示しながらもコルレオーネ家のドンとしての立場を次第に受け入れていくマイケル・コルレオーネの葛藤といったものがあることで、『仁義なき闘い』や『ゴッドファーザー』には極道に生きる者の悲哀や運命(さだめ)が、堅気の人間とは決定的に異なる負の部分が存在する描写としてしっかり描かれていて、だからこそ極道やギャング映画に共感することができたのではなかったか?と思うのです。

また、更に驚くべきは途中で明らかに野村秋介と思われる右翼活動家が登場し、それをこれまた全肯定で好意的に描いているところ。
彼にまとわりつくマスコミの発言はカリカチュアライズされたというより悪意のある意図的な印象の植え付けというべきもので、いまどきこうしたスタンスで映画が作られていることは一種の驚きというべきでしょう。

舞台挨拶で盛り上がる会場内でのアウェー感はちょっとしたトラウマとなるレベルの作品でしたが、まあ、ある意味で良い人生経験にはなったかもしれません。


追記
ヤクザ業界には疎いので知りませんでしたが、この映画には後藤忠政というモデルが居るとのこと。

https://www.news-postseven.com/archives/20181112_800281.html?DETAIL

上記の記事によれば、映画の製作に協力しているとのこと。
映画がなんの臆面もなくヤクザ全肯定なのがそこに理由があるのだとしたら、これはちょっとどうなのか、という話になる。
今はカンボジアで慈善事業のようなこともやっているようですが、それと「過去の業績」を喧伝するような映画が出来ちゃうことはまったく次元の違う話だと思います。
舞台挨拶上映の際の本職と思しき観客濃度の異常な濃さも、なるほど納得というところ。
ラウぺ

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