lento

マイ・ニューヨーク・ダイアリーのlentoのレビュー・感想・評価

-
なぜ『プラダを着た悪魔』(デヴィッド・フランケル監督, 2006年)が名作となり得たのか、そしてドラマのもつ力学とはどのようなものであるのかを、図らずもその凡庸さのうちに示していたように思う。

では、つまらない映画なのかと言えばそうではなく、その凡庸さゆえに、この年齢を生きる女性たちの何かしらを、淡い上質さで描き出せているようにも思う。自意識は、切実になるほど凡庸になっていくところがあり、そうした凡庸さは、ある種の普遍的な心象風景となっていく。

そして、今の年齢を生きる僕の感覚は、この淡さをとても心地よく感じる。

ドラマが本来的に宿す力とは、やはり対立に集約されるところがあり、『プラダ』と本作との決定的な違いは、『プラダ』のミランダ(メリル・ストリープ)と本作のマーガレット(シガニー・ウィーヴァー)との違いから生まれているように思う。

もしも、ドラマとしての語るのであれば、主人公のジョアンナ(マーガレット・クアリー)は、『プラダ』のアンドレア(アン・ハサウェイ)のように、マーガレットと対決しなければならない。けれど、この映画はそうしたドラマを描きたかったのではなく、原作が実話であることに寄りそうかたちで、どちらかと言えばドキュメントに近い風景を目指したように感じる。

そうした意味で、サリンジャーの演出も素晴らしく、『ベン・ハー』(ウィリアム・ワイラー監督, 1959年)における、キリストの描写を思わせる。「その人」は、影のようにしか現れない。ジュダ・ベン・ハー(チャールトン・ヘストン)が、匿名的な1人のユダヤ人であったように、ジョアンナもまた、匿名的な1人の若い女性だった。

包容力のある元彼と、ワイルドな今彼との対比も、古典的であるがゆえに普遍的な風景であり、けれど彼女が心から求めたのは、私が私でいられるための条件(それは今のところ作家になること)だった。

僕自身はそれなりに年齢を重ねた男性であるにも関わらず、また、だからかもしれず、こうした若い女性の持つ風景が愛おしく感じられる。僕自身にとって過ぎ去った風景の、たぶん鏡像のように。
lento

lento