みどりです

眼には眼をのみどりですのネタバレレビュー・内容・結末

眼には眼を(1957年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

・下手だけど内容まとめてみた:

フランス人医師バルテルが非番の日に訪ねてきた患者の診察を拒否し病院に行くことを勧めた結果病院の医師の誤診で患者は死亡してしまう。研修医から「先生なら助けられた」と言われたバルテルはその日以降奇妙な男の影を目にするようになる。その男は死亡した患者の夫ボルタクであり、付き纏う彼にバルテルはしびれを切らし自ら接近する。ある夜バルテルはボルタクの車を壊してしまい、彼と彼の娘をラヤまで運ぶこととなった。ガソリン切れのためボルタクの家に泊まることになったバルテルは死んだ妻の身内を紹介される。翌日死んだ妻の妹から煽られてタルーマという街に怪我人を診察に行くが、怪我人は治療を拒否し、バルテルが戻ると車のタイヤが盗まれていて、移動手段を失ったバルテルはバスが来るまで滞在する。バルテルはバスが余りにも来ないためボルタクに促され徒歩とゴンドラで街まで向かうが、それらの状況はボルタクが妻を失い生きる気を無くした絶望をバルテルに報いるため仕組んだものだった。ボルタクは様々な形でバルテルを苦しめたが、バルテルは剃刀でボルタクの腕を深く切り「街での治療か死か」という選択肢を突きつける。体力の限界が来た二人だが、動けなくなったボルタクが先に街まで行き応援を呼んで欲しいと街への方向を指差す。歩き去ったバルテルの姿が見えなくなったところでボルタクは狂気的に笑い出し、バルテルの歩く方向にはただ一面砂漠が続くばかりだった。

・舞台はヨルダン、フランスとの歴史的な関係を表しているのかもしれない。ラストの砂漠が映し出されるあのシーンはボルタクの狂気と相まって寒気を覚えるほど恐ろしい。

・松本俊夫は映画の刺激について「残酷」という言葉を用いて語っている。要約するならば『世界残酷物語』のような残酷の映像は確かにある意味で刺激的だが、その捉え方は一向に刺激的でなく、残酷のイメージが浅いとしている。目を覆えば逃れられるような残酷さ、つまり直接的な映像としての残酷さに真の意味での残酷さはない。それは単にそういった映像は「生理的刺激」であり「精神的刺激」まで到達していないからであるとする。
確かにラストシーンは一瞬で、その映像のみで「残酷」ではないがボルタクの狂気を表現している。それが目を瞑ろうが否応なく襲いかかってくる「精神的刺激」であることは間違いないように思われる。

松本俊夫『映像の発見』より
「カイヤットの「眼には眼を」(フランス・一九五七年)の砂漠のイメージもまたそのよい例である。フランス人医師バルテルとアラブ人ボルタクとの間に横たわったまったき断絶と血みどろの死闘も、砂漠を徹頭徹尾「もの」として苛酷に描ききることを抜きにしては、あれほど深い意味を表現しえなかったにちがいない。
ことにそのラストシーンの砂漠のイメージは、ほとんど目に焼きついて離れないほど強烈である。傷つき倒れたボルタクが、目的地ダマスクスの方向をバルテルに教え、バルテルはそちらに向かってよろめく足をふみしめながら立ち去ってゆく。突然ボルタクが狂ったように笑いだす。するとカメラがしだいに上昇し、バルテルの行く手に見渡すかぎり果てしない砂漠の山やまが、まるで気が遠くなるほどにむくむくとせりあがる。
そのとき砂漠は、もはや砂漠というよりは状況の内臓そのものを抉りだしたような「もの」となっている。つまりバルテルとボルタクの命がけの格闘の意味、被支配民族の支配民族にたいする根源的な憎悪と、西ヨーロッパの植民主義が現在直面せざるをえなくなっているその政治的・精神的な危機の意味が、「もの」としてとらえられた砂漠のイメージによって鋭く映像化されているのである。
「もの」と対決するということは、このように現実のかくされた非合理をむきだしにしてみつめるということである。それは同時にみつめる眼そのものをむきだしにして、みつめるものの内側にうごめく非合理を、2の外側の非合理と深くかかわらせるということである。いいかえるなら、眼と対象は「もの」によって外界と內界という二枚の向き合った鏡の間にひきずりこまれるということにほかならない。むろんそのむきだしの非情な空間こそ「もの」であり、その意味において「もの」は外界と内界を結びつけるヘソの緒なのである。」