フランスとアルジェリアの街並みを断片的に捉えた本作は、エミホルツが1983年より継続してきた約80本の長編・短編から成る大規模プロジェクト「Photography and Beyond」──その建築映画シリーズ「Architecture as Autobiography」の一環として制作された。エミホルツは1993年にこのシリーズに着手した当初、建物をこのような形式で撮影することが過去にも試みられてきたと想定していたらしいが、実際には同形式(極端なミニマリズム的弁証法)の体系的前例はほとんど見出せなかった。本作はその空白を埋める仕事のひとつである。
本作の形式的な原則は極めて厳格だ。というより、その形式的厳格さは1990年代以降のエミホルツのフィルモグラフィにおいて通底していると言える。初期の実験作品群──例えば「The Formative Years (I)」と呼ばれるプロジェクトのなかの代表作の一つ『Arrowplane』では、丘、都市、ビーチの三つの風景が60フレームごとにカメラアングルを3度ずつずらしながら撮影されることで、水平180度のパンショット(3度×60フレーム)のパノラマシークエンスが実現されていたりするものの、「Photography and Beyond」以後、彼は固定視点(fix)を原則化し、建築空間を写真的エッセイのように記述する方法へと収斂していった。エミホルツの建築ドキュメントに顕著な観察的時間要素もその時期以降に与えられたものだ。それに加えて本作の場合は(少なくとも「Architecture as Autobiography」では)、カットのリズムもおよそ6秒前後に規定され、その原則は一貫して厳守される。あまりにもそのリズムが規則的であるために、通常の映画撮影のカットにおける不均等さは感じられない。どちらかというと、大学教授がモノグラフのページを順に捲りながら進める建築史講義のような時間感覚に近いのではないか。そのため本稿のエピグラフには講義と記した。 キャメラはショットとショットとの合間にのみ動くことが許され、それ以外の時間はほとんど静止している。それはつまり運動がフレーム外における空間移動の際にだけ許されているということである。ただ唯一、風、天候、光の変化だけが画面に揺らぎをもたらす。ナレーションも解説も一切が排除され、環境音のみが空間に満ちるその様子にはもはや映画的な正気が感じられないが、風にそよぐ木の葉や歴史の堆積が刻印された建築の肌理などは確かなものだ。 ところで、この映像実践を系譜的に位置づけるとき、まず参照すべきはストローブ=ユイレで間違いないだろう。ここでは本稿を読む人がすでにストローブ=ユイレを理解しているという前提で話をさせてもらう。周知の事実の通り、彼らは俳優のための前景と建築や風景のための背景という映画的慣習を拒絶し、人間と環境が相互に照らし合う映像空間を徹底的に追求してきた。彼らの長回しの風景ショット──とりわけfixと360度パンはドゥルーズが『シネマ2*時間イメージ』において論じたところの“地層学的”な映像の質感を持ち、一瞥しただけでは見過ごされてしまうものを見ることへと観客を誘うわけだが、エミホルツはストローブ=ユイレが切り開いたこの「空間を尊重する映画」の問題系を正統に継承しつつ、それをより厳格且つシステマティックな形式に昇華させている。固定された視点、ナレーションの排除、建築物そのものへの終わりなき集中──これらはポスト・ストローブ=ユイレ的な映像倫理の実践として読むことができる。ただし、ストローブ=ユイレにおいてキャメラはパンやトラッキングによって空間を探索するのに対し、1990年代以降のエミホルツは一度固定した場所からキャメラを動かすことなく、fixのみに自らを限定するため、より彫刻的・建築的な映像空間を構築していると言ったほうが適切かもしれない。しかもその映像空間にはストローブ=ユイレの状況から翻って、俳優の身体も発話も存在しない。ゆえに両者における決定的差異は明瞭に確認されうる。
転じて、ジェームズ・ベニングとの比較もまた有益だ。ベニングは過去のインタビューのなかで“風景は時間の関数である”という言葉を残しているが、彼のこの哲学は『11 x 14』(1976年)と『One Way Boogie Woogie』(1977年)以降、固定カメラや均一なショット時間といった構造主義的方法論としてあらゆる作品群に結実しており、例えば「カリフォルニア三部作」の各作品は35カットの2分30秒ショットで構成されている。この形式は初期映画のアクチュアリティへの回帰として、静止カメラが世界の性質と私たちの知覚装置の両方を問い直すものだ。エミホルツの約6秒というカットのリズムはベニングの長尺なショットとは一見して対照的だが、両者はともに「固定カメラが空間に時間を与える」という命題とリズムそれ自体の規則性を共有している。ベニングが風景の持続そのものを主題とするなら、エミホルツは建築の断片を連続的に接続することで空間的な伝記をかたち作っていると言えよう。持続の詩学と堆積の詩学、その同じ禁欲的方法論から生まれた二つの異なる映像的知性がここに現れている。 エミホルツ読解においてなにより重要なのは、彼にとって、建築が空間を世界に投影し、撮影がその空間を時間のなかに投影された映像へと翻訳するという作家性への理解だと思われる。映画は建物について瞑想するための空間として、まったく新しい方法で使用される。この立場は、映画を物語の容器としてではなく、知覚の装置として捉える実験映画の伝統に明確に属するものであることから、エミホルツ、ストローブ=ユイレ、ベニングらは、方法実践も気質も異なりながらその問いを最も真剣に持続させてきた作家群として括ることができるだろう。
本作は「Decampment of Modernism」シリーズの第二作であり、『Parabeton - Pier Luigi Nervi and Roman Concrete』や『The Airstrip』と並ぶ。私に言わせればこのエミホルツのフィルモグラフィは、建築学科生にとってはもちろん、映像と空間の関係、あるいは西洋モダニズム建築の地政学的な分布と運命に関心を持つ者すべてに参照してもらいたい批評的実践の集積なのである。ストローブ=ユイレの問題系を継承し、ベニングとは異なる方向へそれを展開させた作家として、エミホルツは映像による建築批評というマイクロジャンルの最重要人物のひとりに数えられるべきではないだろうか。