冒頭から圧巻且つ壮大な自然の中を過ぎ去る風のように大地を彷徨う人間達の悲喜交々。
もうそれはファーストカットから私を虜にし、大地という被写体をこれでもかと言わんばかりのロングショットで織りなす物語に付加する言葉など既に無く、私が最近心に抱え葛藤していた部分と作品が見事シンクロしていき、憂う社会システム(資本主義社会の混沌、際限の無いマネーゲーム…)に更なる疑問の刃を突きつける格好となった。
大企業の傘の下、生活をしていたファーンはリーマンショックの影響で会社は倒産。その煽りは彼女の生活そのものを奪い、住処すら失った彼女は旦那の死後廃村となった町を後にして生活する為の旅を始める。
日本でも少しばかり昔であれば、ホームレスという問題は社会の不安定とそれらの煽りから受けた人達が一定数いた事から一つの社会の闇としてスポットライトが当てられてきた。
ではこの作品が描く彼女達はそうなのだろうか?
いや、そうではない。ホームレスではなくハウスレス、なのだと説く。
難しいニュアンスだ。
家に住む私達は意味は分かっても理解とは少し違う。
しかし彼女の放浪を通して映画は不思議な見解を示してくる。(これはあくまで私感)
私達は様々な媒体を介して社会とリンクしている。
しかしその在り方は正しいのか?幸せなのだろうか?
一部の人間の強欲によって、一寸先の未来すら暗澹とするこの社会の仕組みは理不尽ではないのだろうか。勝ち組と負け組が存在し続けるこの社会形成。
所謂ステータスと言えるリッチな生活が人間に必要なものなのか。(強欲主義的に今や変貌していないか)
お金という柵(しがらみ)は私達を幸せにしているのか。
私が最近、会社延いては社会に思う疑念はこの作品のメッセージと照らし合わせれば合わせる程、異を唱えたくなるものだった。
自由というのは簡単ではない。
あらゆる人が自由となるまで、完全な自由など無い…の一説は社会学者ハーバート・スペンサーの言葉だが、ノマドの生き方は少なくともある種のロマンという矛の代わりに孤独という足枷をしている気がする。
彼等にクローズアップされる映像からはとてもその自由を謳歌してる様には到底感じない。
それでも彼女を始めとしたノマドは自然と向き合い、時折その無慈悲さに直面しながらも、出会う人々と交流して、また次の地へと歩みを止めない。
その朴訥とした生き方こそが実は人間の本来ある部分なのだろう。
そして、そこから浮かんでくるのは誰しも人生など簡単には生きていけないし、それは1人だけで成すものでもないのだと。
彼女の旅というのは則ち私達一人ひとりの人生という時間の旅ではないかと感じた。
それをここまでミニマルな表現と真逆に雄大な自然とを対比させたロードムービーを私は知らない。
ある種、万病的なこの社会問題をこういう切り口で切り取った本作を万感の拍手で迎え入れたい。
"映画"としての魅力も非常に秀逸であった。
主人公ファーンを演じたフランシス・マクドーマンドはもう圧巻の演技過ぎて筆舌に尽くし難い。なんせここまで人の心に落とす不安や機微をここまでセンシティブに体現出来るかと。自然過ぎるのだ。
個人的には「スリー・ビルボード」の怒る母親の衝撃を超えてしまった。あの時も大概感嘆したのだが…今年のアカデミー主演女優賞は混戦で、キャリー・マリガンとヴィオラ・デイヴィスとの鬩ぎ合いが続く。(個人的にはキャリー・マリガン推し)マ・レイニーのあの白人に媚びず激動の時代においても自分を貫くパワフル演技のヴィオラ・デイヴィスも凄かったが、それでも今作のマクドーマンドの演技のインパクトの方が私の中では上回ってしまった。
加えて彼女を取り巻く人達は本当のノマドだと言うからまた驚きで、リンダ・メイとスワンキーの2人は演技という幅を超えて迫ってくる。人間が生きるという事は美しい世界の鼓動に触れた時に人生の意味や価値を知る。その言葉には本当の重みを感じる。お金が全てではないのだ。
中でも私の琴線に触れたのは大地を放浪する人々の孤独な心象を浮き彫りしつつも寄り添う様にピアノが淡々と旋律を奏でるのだが、この音楽を手掛けた人は誰かと思っていたらエンドクレジットでなんとなんと、ルドヴィコ・エイナウディというからテンションが1人上がってしまった…。でも本当に彼の旋律は胸に沁みる…。
そして、クロエ・ジャオ監督には是非監督賞を受賞してほしい。
彼女が描いたこの作品こそが世が希求する声であるからだ。
そんなリアルな表現をカントリー調のロードムービーに仕上げたこの技量。
今評価せずして、いつ彼女にオスカーを贈るのか。
最後に。(若干オチに触れますので、ご了承ください)
私達は何処へ向かっているのだろうか。
彼女はパートナーとの思い出に浸り過ぎたと語っていた。
それは最後のシーンへの布石なのだが、そこで感じたのは、彼女は自分の生き方を生きれていなかったのではないだろうか、という事である。
最後に至る迄は流浪に近い感じではあったが、本当の最後でスワンキーとは異なるものの、彼女の人生の意味が繋がりだしたのではないだろうか?
これからファーンが走る車の走る先、行き着く先のそれは私達のこれから走る道、行き着く場所でもあるのだろう。