このレビューはネタバレを含みます
砂連尾さんのバレエの人としょうがい者との対比が印象に残っていて、脚があがる人と上がらない人で方向性が違うだけっていうのが確かになあと思った。
しょうがいを主題にした劇や
ハンデを気にされる不自由さ
(追記:2021年7月11日)
耳の聞こえない人や目が見えない人、車椅子で生活する人たちが集まって組み合わさって何かを作って表現して、、っていうのを観て、聴覚や視覚や触覚で受ける刺激に宿るものについて考えさせられた。
その表現の源に目を凝らす
源を表す、、
表現→つまりは表源だな…?などと考える。
また、彼らが舞台をつくっていくシーンを観ながら、自分の停滞した生活を思った。
・ビジョンを明らかにする
・持っているもので、できることの中で最大限を出す
・できないことを知る
・どうやっても変えられない事柄を認識する
・変えられるところを練習や経験を積んで変えていく
これが当たり前の過程で、原点にして頂点、王道と書いて近道と読む、ってことに立ち帰る。
インスタやTikTokに冒された最近の私らの脳みそは、だれかの登ってきた道のりを無視して、恵まれた持ちものを羨んで、表に出ている成果だけを見て、目指してもいなかったのに「私にはできない」と嘆いてばかりだなぁ
これに気づけたのも、本作を観てから暫く経った今。私と似たような体躯を持つ人が、彼女自身の脚や腕の長さが短い、比が綺麗じゃないと呟くのを聞いたから。
そんなのどうでもよくない?と思えたのは、映画の中の彼らの生活ほどあなたは大変じゃないでしょう、彼らに比べてあなたはマシでしょうってことではない
なんちゅうか、君は身体の比が綺麗とかどーとかにこだわるようだが、美しさっちゅーもんはそこじゃ無いねんなぁ
その先を、、表れているものの源と、それぞれの持ち物ってのがあるってことを頭に置いといてほしいなぁ
(私と似たような身体を綺麗じゃないと言われたのが悲しかったの…)