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映画 太陽の子のspoornerizmのレビュー・感想・評価

映画 太陽の子(2021年製作の映画)
4.5
監督と米国在住プロデューサーのトーク番組を聞いた。

なるほどと思ったのは、演者(俳優)同士の、その場で、彼らしか出せない空気を切り取るようにして物語を撮影していったという事。「これこれこうして、こういう感情で」という細かく指示はあまりしない監督らしい。柳楽さん演じる科学者石村修が山に登って、のあの印象的なシーンも含めて。

物語について、主演らしく、いや、主演だからということでなく、いつもきっとこの俳優さんはそうなのだろうと思うが、監督の求めに応じて自分は演じてみたので「解釈は皆さんにお任せする」といったニュートラルな姿勢だったという主人公石村修を演じた、柳楽優弥さん。
「俳優は、想像を届ける仕事」と話した、石村裕之を演じた三浦春馬さん。本当にこのふたりがおっしゃっている、その通りの映画になっていると思う。

この物語は、背景説明は限定的で、主人公たちの言葉も少ない。戦争に対する本音というものの存在が、根本から否定されているような。時代がそうだった、自分の気持ちを話すなどあり得ない、そうあることを人々に強いた部分ももちろんあるだろう。
ただ、その一方で、映画として、主人公たちの語らない言葉を、観るこちら側に想像を巡らす「余白」をたっぷり設けた、ともいえる。そして、それを促すのに充分な役者たちの演技、表情、佇まい、動きから滲み出る感情があって。更にそれは「演技」と思わせないくらい、物語の役の「そのひと」で存在している。

一番好きな一幕は、
修と裕之が、海を前にして白い砂浜に並んで座り、話すところ。
兄弟、だよね。
方法は違っても同じ方向を見なくてはいけなくて、自分が抱える思いは後回しにして、戦争の時代を懸命に生きようとしているし、お互いを尊重している。言葉は少ないのだけれど、気持ちがすごく伝わってくる。

実は3回、この映画を観た。

最初に見た時は、"昨年のテレビ版と同じ所が多いな"と、何処か気持ちが入れないで観ていた。けれど、京都の緑深い風景を背景に、軍服姿の裕之が一時帰省して歩いてくるのが、映画館の大きなスクリーンに映し出されたとき、画面から迫る空気感が凄くて、ハっとした。そんなことは初めてだった。

そこから引き込まれた。そのあとは、「説明はなくても、こう解釈できる」って思いながら見てた。わからない関係性もあったけれど、解釈が違っててもいいやと、とにかくこの物語を、登場人物たちの表情を少しも見逃したくない気持ちがあった。その空間に一緒にいるかのような錯覚を覚えながら夢中で見ていた。テレビ版のことは忘れていた。

修が比叡山に登り、そこに世津が来る所は、最初に観た時から、終戦になったんだな、て不思議とわかった。妙に「確信」したのは、この時代の物語を沢山見ていて、玉音放送のシーンを何度も見ているからかな。逆に言えば、若い人には「置いてけぼり」にされるシーンかもしれない。

2回目に観た時は、最初の、陶器工房で釜に火入れする「ごぉーー」ってシーンから惹き込まれた。そして、2回目は泣いた気がする。

3回目は、ノベライズ小説を読んでから行ったので、修と裕之の関係がよりわかったし、そういう視点でふたりを見たので、より理解が出来た。だけど、その関係性は自分は知りたくなかったような気もした。それにこの映画の流れだけでは、その兄弟の関係までの理解は促せないんじゃないかなっても思った。
いや、そこは映画の物語としては、「うん?」ってちょっと引っかかるだけでいい作りなのかな、とも思ったりもする。

そして、これは、このレビューの最初のところにも書いた「監督とプロデューサーのトーク番組」で監督が言っていたところだけれど、
ノベライズ小説は、「映画とは違ったバージョンとして読んでみてもらえると嬉しい」と監督が言っていた。映画で描ききれなかった背景を書いている所がもちろんあるけれど、少し違った視点もある、と。

確かに。
ノベライズ小説では、主人公たち、特に石村修の抱えている気持ちがよく描かれているが(主人公なので当然だが)、それは映画で描かれているかというと、そうとは言えないなと思っていたから。描かれていなくても、そういった背景があっての感情が修に盛り込まれているか、という点でもそう感じないところもあった。

「ノベライズ」というのは、映画の脚本から立ち上げるものなのか?そんな事も考えた。どっちが先かといえば映画だろう。だからノベライズは「補足版」かもしれないけれど、少し独り歩きしているようなところもなくはなかった、、それは良いのか?、とも思ったり。
だから映画は映画として楽しんだ方が良いのかもしれない。

この映画を3回も観に行ってしまったのは、音楽が良かったのは凄くあると思う。押し付けがましくないチェロ・バイオリンの音が控えめに使われている。それに映像が、ことさら美しいのもある。だけど、一番の理由は、全ての登場人物は、役者さんが演じているのではなく、その人そのものなんじゃないか、って思えるほど「そのひと」たちがいるからだと思う。その人たちが織りなすドキュメンタリーのように思えて、それぞれの心情をもっとよく知りたくなったのが、繰り返し観たくなった理由だと思う。

こんな風に思った映画は初めて。
終戦記念日、お盆の前後の時期に公開された意味がある映画だ。



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【テレビ版との違い 追記】

テレビ版は、
・最初のシーン、最後のシーンは、石村修(柳楽さん)が歩く原爆ドーム
 映画版は、イッセー尾形さん演じるオヤジさんのいる陶芸の釜に薪を足すシーン

・堀田(葉山奨之さん)の葛藤、出陣、研究室に戻されるシーンはない
・ナレーションが、石村修(柳楽)とセツ(有村架純さん)
・アインシュタインらしき人の声はない
・硫酸ウランからU235を取り出すことに苦労するくだりは、映画の方が詳しい。
・映画の最後の海のシーンはない
・修が頬張るおにぎりのシーンもない

これはテレビ版の感想だが、「なぜ中途半端なものを放送してしまったんだろう」というのが率直な感想。テレビ版は戦時下の若者の群像劇がテーマだと読んだ気もするが、それならそれとして成り立たせるには、コンテンツとしては少し不足してるような気がする。

映画版が好きな自分としては、大きな画面で観るからこそ意味があると思った。演じた俳優さんたちの"間"の取り方が、映画版向けなんだろうな。少し長めで。だから、テレビ版ではその"間"の良さが全然伝わらないものなんじゃないかなとわたしは思ってしまって、すごく口惜しかった。
中途半端なテレビ版を観ずに、最初から映画版を見たら、より感動しちゃっただろうなぁ、という感じ。

ブルーレイになったら、大きなスクリーンを用意してひとりでどっぷり浸りたい、それくらい映画版の良さは筆舌に屈し難いです。
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