ラウぺ

ドライブ・マイ・カーのラウぺのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.2
舞台俳優で演出家の家福は妻で脚本家の音と充実した生活を送っていたが、外出から帰ってみると、音が意識不明で倒れ、そのまま亡くなってしまう。家福は音のある秘密を掴んでいたが、それは解決されないままとなった。2年後、演劇祭の演出家として家福はチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の上演準備のため広島に赴く・・・

村上春樹の短編「ドライブ・マイ・カー」を原作に同作収録の短編集「女のいない男たち」から設定やストーリーの一部を取り込んで映画作品としたもの。
原作を読んでから観るか、観てから原作を読むか、という順番はこの作品についてはまず原作を読んでから観た方が良い、と断言してしまいたい。
物語後半のキモでもあるので、詳細は書きませんが、メインとなる「ドライブ・マイ・カー」に付け加えられた要素のウェイトは予想よりも大きく、原作を読んでいてもネタバレとはならないこと、「ドライブ・マイ・カー」以外の短編から取り込まれた要素が本編でどのように顔を出すのか興味深く観ることができること、更なる驚きはその融合が予想を大きく超える形で物語が発展していくところを堪能できるからです。
これが原作未読だと、この3時間にも及ぶ作品のどこに上記のそうした工夫の成果が現れているのか知る楽しみがスポイルされてしまうのです。

たった60ページに満たない原作に3時間、そりゃ他作品からいろいろ拝借しないと間が持たないだろう、という当初の予想は、特に前半延々と続く「ワーニャ伯父さん」の読み合わせのシーンの連続に半ば確信めいた落胆に傾きかねないのですが、あらかじめはっきり言っちゃうと、そのようなことにはならない。
この「ワーニャ伯父さん」の読み合わせのシーンは、あえて感情表現を封印し、脚本とセリフを徹底的に覚え込ませる家福(=濱口監督)の意図によるものなのですが、これが多国籍の俳優による多言語演劇(観客は背景の字幕でセリフの内容を知る)というアクロバティックな演出、家福がクルマの中で繰り返し聞くカセットテープに音が吹きこんだセリフ(これまたあえて無感情に語る)を聞く場面も加わり、「ワーニャ伯父さん」の内容を知らないと、特に前半は退屈極まりない展開が続く。
私は「ワーニャ伯父さん」は作品名しか聞いたことがなく、物語の予備知識はまったくなかったのですが、ここで我満しながらセリフを聞いていると、「ワーニャ伯父さん」の登場人物たちと物語のごく基本的な内容が徐々に把握できるようになっています。
これは後になってかなり大きなウェイトを占めるのですが・・・まあ、なんだかわからない人も我満してセリフをよく聞いていて戴きたいところ。

物語は上記のように当初は非常にゆっくりとしたテンポで原作に準じた展開をなぞっていきます。
原作は非常にふわっとした文章で家福の心理を表す叙述があるのみで、この映画が端々に見せる登場人物のセリフの具体的な感情表現や直接的な状況説明は原作の読者に行間を察することを求める作風とは非常に大きな隔たりがあります。
それは家福が原作ではあまり売れない俳優であることや音が売れっ子女優であること、また車のSAAB900が黄色のカブリオレから赤のサンルーフつきに変わっていること(これはあくまで車両の手配の都合かもしれませんが)など、少ないとはいえない細部設定の変更などといった些末なこと以外に、物語の進展そのものが大きく原作から離れ、独自の世界を築いていくこととも関係があるのだろうと思います。
その内容は観てのお楽しみなのですが、この原作と映画の大きな違いこそ、この映画の最大の見どころでもあるのです。
基本のプロットは原作に準拠し、それを植木鉢に植えてさまざまな栄養を与え、丹念に育てて大輪の花を咲かせるのに似た作業の末、咲いた花は当初の予想とは大きく違う容貌となっていますが、その花の香りは紛れもなく原作のそれで、物語の終着点は原作の家福の心理のその先にあるべき姿を反映させている、というところでしょうか。

原作ものの映画化の場合、原作のイメージを生かし、プロットや設定を大きく変えずに忠実に再現することを目指すのか、それとも内容の改変を厭わずに独自の世界を描くのか、その方向性は製作者の専権事項かと思いますが、後者を選ぶ場合はそれなりの覚悟と技量を要することは間違いないと思います。
この長大な映画で、独自の境地を拓きながら原作の目指すところの更に先に観客を連れていく濱口監督の驚くべき物語は、カンヌでの脚本賞受賞もむべなるかな、と納得しないわけにはいかないのでした。
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