Kenjo

ドライブ・マイ・カーのKenjoのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.2
村上春樹原作映画。3時間の超大作。
めちゃくちゃ長いと思ったけど、体感割と早かった。
文学が原作というのもあり、ものすごく文学的な映画だった。

ピアノの旋律が印象的な予告映像がよく流れてたため、気になってみようと思ってたんやけど、予告編がサスペンス、ミステリーっぽさを演出してたのに、全然ミステリーじゃなくてびっくり。ジャンルとしてはヒューマンドラマなのかな。ヒューマンドラマ好きだからむしろよかったけど、ミステリーだと思って見に来てる人はかなりミスマッチ感あるよね、、

西島さんが演じる家福さんが主人公。家福さんの妻、音さんが序盤になくなり、その喪失についての物語。
音さんも娘を幼いうちに亡くしていて、その精神的なショックから、健忘的な状態がしばしば訪れる。セックスをしている間に、物語を音は話す。語られる話は朝になると覚えていないが、夫がそれを覚え、脚本にするという特殊な仕事のやり方をしている。
音さんは娘の喪失により、心に大きな穴が開いており、それを埋めるためにセックスをしていて、それは夫だけに限らない。
この映画で語られる物語は空き巣の話である。
女子高生が好きな人の家に空き巣に入り、入った印を毎回残すという話。とても奇妙な話だが、男子大学生は普段の音で、女子高生というのはセックスしている音のことで、もう1人の空き巣が家福なのかななどと考えていた。印として残しているのは、物語そのものかな。もう1人の空き巣が左目にペンを刺されたと言う描写から緑内障の家福だろうということから逆算したけど合ってるのか分からない。
なぜ印を残すのかということについて、最後の監視カメラの話から考えると、何か愛を伝えたかっただけではなく、彼に影響を与えたかったというのがあると思う。「好き」という感情は独占欲、支配欲に繋がりやすいと思っている。自分の存在が相手に何かしらの影響を与えることができれば、相手の人生の一部になれたような気がして嬉しくなるようなもの。相手の感情を動かすことこそが相手と対等に渡り合っている証拠になると思っている幼稚な距離の取り方だが、大人もセックスしないと分かり合えない部分があると言ってるから同じようなもんなのかも。
家福さんがポーカーフェイスで感情の起伏が少なく何をしても受け入れてくれるため、音さんはそこが不満でそのような話をしたり、他の人と浮気をしたりしてしまっているんだろうなと想像してみた。

そのような中での突然死であり、しかも話がしたいと音が言ったあとということで、ちゃんと音の気持ちを聞いてあげられなかった後悔と、家に帰るのが怖くてドライブして夜遅くに帰宅したため倒れたことに気づくのが遅くなったことへの罪悪感はかなり重いと想像がつく。その取り返しのつかない喪失がこの物語のテーマとなる。

妻の死の謎を解く物語だと思ってみていたため、妻の死のフェーズが早々に終わり、広島の演劇祭に舞台が転換していくところで、これから妻の謎が解かれるのかと思ってみていたが、浮気相手が図々しく現れるだけで何事もなかったように展開していった。
家福さんの戯曲は変わっていて、日本語だけでなく、韓国語、英語、ロシア語、手話に至るまで色々な言語が話されながら展開される。とても面白い演劇スタイルであり、言語という壁を超えて人々が心を繋ぎ合っており、同じ言語を喋っていても心が繋がらなかった音との関係の皮肉とも捉えられる。

後半はドライバーと家福さんの2人の話へと展開していき、2人の喪失を認め解放するということが主題となる。
ここからは瀬戸内のシーン含め、紀行を見ているような美しい映像がよかった。
ドライバーも母の喪失を経験しており、その喪失感で繋がる部分を感じ、家福とドライバーは何か絆のようなものが形成されていた。
この2人の関係は、ラストシーンでも示唆されるように深いものとなっていったが、そこについて明確に説明されない感じがものすごく文学性を感じてよかった。当事者にしか分からない理由で、2人の関係性が続いていくって1番理想的だと思う。なぜか分からないけど一緒にいる、一緒にいると落ち着くなど、当事者間での感覚、相性でしか説明できない理由って理想。

3時間にも渡る映画なので、色々好きなシーンとか気になったシーンはあるが、最後に心動いたシーンを一つ。
ワーニャ伯父さんという戯曲を広島演劇祭で披露するため練習していたのだが、その演劇祭での最後のシーン。
手話の女性が、ワーニャ伯父さんの後ろから抱きつくような形で、最後のセリフを手話で言う場面。
内容的には「どんなに辛くても生きていかなきゃなりませんよ、一緒に生きていきましょうね。」というような、ワーニャ伯父さんを代表する名台詞なのだが、それを全て手話で語らせることにより普通に喋るよりもより聞き入ってしまう自分を感じた。手話なので喋っている間は、沈黙が流れるのだが、その沈黙がそのセリフをより強く印象付けるようなシーンとなっていた。
最後のシーンを見ると、この演劇でソーニャに手話の方を当てたのは大正解だったなと確信できた。

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ここまで映画本編の感想。
ここからは原作の小説を読んだ上での感想。
どの部分が原作をモチーフにしているんだろうと気になってみてみた。
小説自体は「女のいない男たち」という本に収録されているたかだか70pの短編である。
家福にまつわる関係性はほぼ原作通りだが、セックスしながら物語をする妻という設定や、ドライバーの母の死因、演劇祭の設定、広島が舞台という設定は全く違うものであった。
"喪失"と"妻の元セフレとの確執"がテーマなのは一緒だったが、その他の映画を映画たらしめる設定が全く違っていた。
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