この映画のレビューに、カオリ(伊藤沙莉)みたいなレビューが多いのがとても面白い。
カオリの「田舎から出てきて東京にアテられたサブカル女」の解像度がとても高くてめちゃくちゃキモかった(褒めてる)。
めちゃくちゃキモいのだが、自分自身にもそういう気がある人達というのは、概ね、そういうキモさを魅力的に見てしまう。
特に若いと、そういうタチの人を魅力的に見てしまいがちだ。
何故、若さでそれが増幅するかと言えばそれは簡単で、若い時というのは自分が特別で何者にでも成れると信じている部分があって、その気持ちというのを否定したくない故に否定できないからだ。
薄々、自分は普通なのでは?と思っていても、何処かでは、そんなことはないはずだと思っている。そういう時期が若さなのである。
それ故に、ああいう人達を魅力的に思ってしまう。
サブカルを通して得た知識や本の引用で、佐藤(森山未來)を諭しているシーンが度々あるが、その薄っぺらさがサブカル女のキモさを象徴的に表現している。
監督のサブカル女への理解度は元より、それを見事な解像度で表現し演じた伊藤沙莉が圧巻で、キモいなぁキモいなぁと言いながら観てしまった。
そして佐藤なのだが、もちろん、佐藤の方も薄っぺらい。
カオリと出会って以降の佐藤の行動原理は全てカオリの言動がキッカケである。
自分からやりたいと思っての行動ではなく、カオリにアテられての行動なのだ。
それくらいカオリのことが好きだったのだと言えばそれまでだが、恋人だろうが好きな人だろうが他人は他人だ。彼は他人ごときに言われないとやらない、やれない奴なのだ。
しかし、そういう若さ(=大人になれなかったこと)を否定するつもりは全くない。
事実、若いのだから。
若いということはそれだけで尊いのである。
若い時期というのは、誰しもが手に入れることができる人生の宝石箱の様なものである。
そういう「大人になれなかった」という人生の宝石が、失恋によるメランコリックや、時代の変遷というノスタルジックなのである。
それを映画という形で表現し、パッケージングし、今で言うところの「エモい」に仕立て上げているのが今作なのである。
人は、否が応でも年齢を重ねるものであるし、老化して行く。それに伴い社会的に大人になる必要がある。大人にならなければならない時というのは必ず訪れる。
その時、自身の宝石箱が、キラキラと輝いた自分だけの宝石たちで溢れていると、とても頑張れるのだ。またその宝石箱に、大人になれた自分という宝石を入れられる様にする為に。