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マ・レイニーのブラックボトムのtsuraのレビュー・感想・評価

3.9
オーガスト・ウィルソンの有名戯曲を基に映画化された本作だが、黒人音楽を好きと公言してる自分なのに恥ずかしながら、今作を見るまでそのマ・レイニーなる勇ましく豪快な"ブルースの母"の事など知らなかった。

誰しもがその混沌の中を泳ぐ1920年代後半を舞台にしながらも一向に明るい兆しの見えない黒人社会、人種差別の根の深さ。
そして、それを全て白人の所為、社会の所為と嘆く黒人のアイデンティティ、土壌形成の難しさ。

現代に於いてもその禍根は消えるどころかより鮮明に差別という問題が解決へ如何程遠のいているのかは、トランプ大統領が招いたと言っても過言ではない「社会の分断」たる言葉が指し示す通りで其れ等をより如実の物としてしまった。

映画の中の彼等は時代こそ違うが、今と似た様な世界を生き、マ・レイニーのレコーディングという短い時間の中で各々の背景を辿りながら様々な差別の有り様を見せつつ、まるで現代劇なのかと疑いたくなる全容を提示して黒人が背負う悲しみや怒りをブチまける。
それにはただ絶句、悲しさを禁じ得ない。

こんなストーリーを追っていると、混迷を極めるアメリカの世情がまんま焼き付けられた映画の様に思う。(そして、いちいちタイムリーでもあった)トランプ大統領が自身の保身に走るあまり、熱狂的支持層を過敏に反応させ、狂信的な感覚を備えさせ果ては、過激思想と癒着させてきた。

年始の連邦議会への襲撃然り、彼等が走る道のりが過ちでいる事にいつ気がつくのだろうか。

ちなみにこの映画はその様な過剰な白人の"過ち"についてスパイク・リー並みの皮肉で表現していることはない。

むしろ冒頭部で触れたが、彼等の生い立ちと、その世界で生きることに因る人生の選択の過ちの方にフォーカスされてるのが興味深い。

例えばマ・レイニーは横暴で、要求は高く、傲慢に見える。なんせ白人をこき使う訳だから。
しかしこれは彼女なりの闘いであり、叫びなのだと言う事は映画を進めると見えてくる。
しかし彼女が唯一、彼女自身を守り解放させるブルースたる音楽はこの"ブラックボトム"録音時でも岐路に立つ寸前で、レヴィーを疎ましく思う反面、彼の推す音楽こそがやがて「ハーレム・ルネサンス」と例えられる黒人音楽の勃興期へと繋がり拡大していく。そして何よりそれらを躍進させたのが、紛れもなくデューク・エリントンという偉人で、つまりは彼女は愛すべき音楽にまでやがて苦しむ事になるという勝ち目のない戦の中でもがいている様にも見て取れてしまう。
ブルースの母と持ち上げられているのに、外へ踏み出すとただの黒人として括られる彼女の葛藤は如何なるものだったのだろうか。

一方でレヴィーはその黒人特有のストーリーを垣間見せる。

凄惨な過去が彼の人生を支配している事が途中の涙の告白で分かる。その白人からの残酷な差別には言葉を失うが、多かれ少なかれ皆、その中で懸命に生きていることもこれによってまた見えてくる。しかしは彼は嫌に頭の回転が良くそれが仇となる。レヴィーは白人にぺこぺこしながらも好機を伺い牙を研ぐ。支配者達への叛乱の機を見ているのだが、彼は思いもよらぬところで足元を掬われる…結局彼はナイーブな青年だったのだ。ごく普通の青年だったのだが、その答え故に自身すら破滅と向き合う事になるそのエピソードもまた悲しい。
その招いた事件が、実は1人の力ではどうにもならないかの様な因果に繋がっている様にも見て取れる。それ故に彼の招いた問題は何も浅はかな問題とも片付けられない様に感じた。そして、何よりそれが現代でも横たわる問題だということにまた辛い気持ちを思い出させてしまう。

悲しい哉、音楽という芸術であり娯楽のはずなのに。

ただし、映画は少しお喋りが過ぎるというか、詰め込みたいメッセージや物語をあまりに詰め込み過ぎているせいか、とりわけ前半部はタイラー・ペリーもびっくりの口数の多さであった。
その割には展開も少ないので、矢張りこの作品の最高のフォーマットは本であり、舞台なのだろうと感じてしまったのは残念である。



そして、最後になるがチャドウィック・ボーズマンという才能豊かな俳優の死を悼まずにいられない。

今作のその熱の入った演技を語れば語る程、ただただ惜しい。
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