白眉ちゃん

Mr.ノーバディの白眉ちゃんのレビュー・感想・評価

Mr.ノーバディ(2021年製作の映画)
3.5
『J.Wと対をなすストラッグルの記号』


 平凡で冴えないと思われていた男が実は諜報機関にも所属していた程の凄腕で、奪われた(或いは失われた)愛や自らの領域を侵害されたことをトリガーに過激で娯楽性の高い報復劇を繰り広げる、そんなアクション映画の定型がある。近年の人気シリーズだと、リーアム・ニーソン主演の『96時間』('08)やデンゼル・ワシントン主演の『イコライザー』('14)などがある。その中でも有名なのがキアヌ・リーブス主演の『ジョン・ウィック』('14)だろう。今作の脚本を務めたデレク・コルスタットは他でもない『ジョン・ウィック』の脚本家でもあり、それ故に『Mr.ノーバディ』も『ジョン・ウィック』と似たようなアクション映画と片付けられてしまいそうだが、実際はバイオレンスに関して『ジョン・ウィック』とは対照的な表象が描かれている。

 『ジョン・ウィック』シリーズはアクションを行うこと、つまりは暴力を行使することに関しての理性的な思考や感情は描かれない。悪役の脳天をビデオゲームのように撃ち抜き、人間の命を奪うことへの心の咎はない。その精巧な殺戮はスタイリッシュではあるものの、もはやスタントマン出身のチャド・スタエルスキ監督によるスタントの見本市のような映画である。主人公のバックストーリーにある愛する妻や犬の存在はアクションの添え物程度のドラマしか紡がない。また『ランボー』('82)のジョン・ランボーのように、派手に暴れる程にベトナム戦争が一人の兵士に及ぼした心的ストレスや帰還兵への不理解といった重たい社会的なメッセージを浮かび上がらせたりはしない。個人的にはその単純な娯楽アクションの追求に『ジョン・ウィック:チャプター2』('17)で飽きがきてしまった。しかし、『Mr.ノーバディ』のハッチには、暴力に関しての非常に理性的な思考や振る舞いが多く見られ、アクションの添え物程度ではないドラマを持ち合わせている。

 まず序盤の強盗被害にあうシーンでも、その反撃の刹那、強盗犯の拳銃に弾丸が入っていないことを見咎めると正当防衛という暴力を行使する最大の大義名分を放棄してしまう。強盗犯の自宅を特定し、報復に赴くも彼らの生活の実情を見てハッチはまたも思い止まる。その後、きっかけとなった猫のブレスレットも自宅から見つかり、暴力の正当性は勘違いとして否定されてしまう。物語は人生へのフラストレーションを抱えた中年男による報復劇の導入をとりながらも安易に暴力を肯定してはくれないのだ。その前提があった上で、物語の動き出しにあたるバスでの乱闘が起こる。乱痴気騒ぎの若者たちと怯える女性だけをバスに残し、ゆったりと独白を混えるハッチの内心は至って冷静である。多勢に無勢ながら拳銃を放棄し、素手で立ち向かうハッチは文字通り、自らの手で暴力を行使することに自覚的であると言える。

 また暴力は一方通行なものではない。相手の反撃にあい、ハッチ自身もボロボロに傷ついていく。ハッチのアクションは決してスマートなものとは言えない。あごの骨が砕けて窒息し掛けている敵の気道確保の描写や身体に刺さったナイフを抜く敵の描写、横転した車から走って帰るハッチの描写など、暴力の反動の描写も印象的である。殺した敵の側に腰を下ろし、滔々と自分語りをする様などは暴力を行使することへの折り合いや自省の心理が窺える。暴力の快楽だけを提供する単純なアクション映画とは異なる主人公の仕草と言えるだろう。極めつけは、バスでの乱闘を終えたハッチは後に「救われた気分」と語るが、決して暴力による尊厳回復には直進しないことだ。傷だらけで帰宅したハッチは、寝ずに待っていた妻のもとへ行き、「寂しかった」と告白する。暴力の快楽性を認めつつ、それ自体が人生の回復にはなり得ないことを一方では理解していることがわかる。

 しかし、そんなハッチの想いとは裏腹にバスの若者の一人がロシアン・マフィアのボスの息子だったことから報復の螺旋に組み込まれることとなる。主人公に相対する敵役は本質的にもアンチテーゼを持つのが基本である。マフィアのボス・クズネツォフはどんなキャラクターだろうか?彼は暴慢な人間で、暴力や殺しによってマフィアの世界をのし上がってきたことが言動からも容易に想像できる。今はマフィア連合の基金の管理を任されているが、トップに君臨し続ける為に他者を暴力で威圧し続けねばならないことに内心では嫌気がさしてもいる。その姿は身も心も荒んでいた政府の殺し屋をしていた頃のハッチとも重なる。ハッチはかつての標的が改心して慎しくも幸せな人生を送っていたことに驚き、普通の男になることを選んでいる。だからこそ、ハッチは基金を燃やした後(これは家庭を強襲され家族の思い出のつまった自宅を燃やさなくてはならなくなったことの等価報復)、クズネツォフの眼前でステーキを頬張るという挑発的な行為をしながらも終戦と隠居生活を彼に提案するのである。しかしながら、クズネツォフは感情的になって基金の支援者を殺してしまうなど、暴力を行使する前の理性的な思考が欠落している。それ故に彼はハッチの提案を拒み、どちらかが死ぬまで終わらない抗争を継続させてしまう。暴力への自制心の有無が、最後にはクレイモア爆弾を撃ち、惨たらしい傷を顔面にあびて絶命するクズネツォフと爆発の反動を食らいながらも生き延びるハッチとのシールド一枚の分水嶺となっている訳である。

 アクション映画としては暴力の快楽性は否定しきれない。クズネツォフが抗争の継続を選んだ時のハッチのやや嬉しそうな表情も事実である。しかし、無自覚なまま暴力を娯楽にすることも躊躇われる。そのジレンマが新居にも地下室を設けるハッチやエンドロールで彼を追う仲間たちの態度からもわかる。この『Mr.ノーバディ』は暴力の快楽がインフレーションした『ジョン・ウィック』の反動であり、同じ脚本家だからこそ書く意義のあったキャラクターと物語である。しかし、この暴力についてのコメンタリーがアクション映画を新たな境地に連れていくわけもなく、ストラッグル(葛藤、内なる闘争)の仕草に多少の新鮮さを覚えたとしてもこの理知的な内省を残念ながら多くの観客は気にも止めないだろう。
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