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竜とそばかすの姫の2049のレビュー・感想・評価

竜とそばかすの姫(2021年製作の映画)
1.0
 細田守監督による長編オリジナル映画6作目。

 幼い頃からアニメ好きだったので長編オリジナルアニメ映画となると大抵観てきたが、細田守作品は何故か足が映画館へ向かず『時をかける少女』しか観ていない。『時をかける少女』は原作があるので細田守監督自身の純粋な作家性をほとんど知らない状態で本作を鑑賞。本作は舞台が高知ということで観ることに。
 
 ネタバレ全開で感想を書くので未鑑賞の方は注意してください。





 冒頭の欠けたマグカップ、足を欠損した飼い犬など大切なものが欠落しているとさりげなく示唆する演出に期待は高まる。気持ちを吐き出したくて歌おうとするが歌えず、代わりに嘔吐してしまうといった演出も良かった。演出やキャラクターの豊かな表情など良いところも沢山あるが、中盤から終劇にかけて脚本がとにかく悪い。

 まず【U】の設定や仕組みなどの説明が足りず、もう一つの人生などと劇中では言っていたがよく分からない。実世界での主人公は全力疾走しているだろうシーンでUの中では別の思考をしているといった矛盾がたくさんある。5人の賢者がどうのこうのといった冒頭の興味を引く説明も全く意味のないもので混乱させられる。コンサートのシーンなど、あれをヒロちゃんだけで運営してるのか?など次々疑問が浮かぶが何ら説明はない。

 中盤から竜が登場し、竜を捕らえアンベイルしようとする自警団との攻防が描かれるが、そもそも竜は劇中で特に悪いことをしておらず、試合で相手を叩きのめしすぎるから嫌われている、というくらいである。これでは物語を引っ張るにはあまりにも自警団達の動機が弱すぎる。そもそもこの自警団達は自称正義で誰にも権限を認められていない存在のはずで、劇中でもジャスティンが運営にはUの中での警察の役割をする組織の必要性を否定されたと語っていた。なら、何故彼がアンベイルできるのか?

 竜が追われる原因というのを現在のSNSにおける犯罪行為をしたわけでもないのに失言や一つの失敗でネットリンチされ炎上する、というメタファーとしているのだとしてもただのユーザーでしかない自警団がアンベイルできるという圧倒的な力を持っているという設定は不自然でしかない。

 また終盤での、虐待されもしかしたら命も危ないかもしれない恵と知を救うためには素顔で歌うしかないという展開があるが、こういったシーンの感動を形作るのは「命が失われる可能性」を天秤にかけた時にそれと吊り合う「犠牲を主人公が払う」という自己犠牲的な感動である。冒頭で鈴の母が行ったものこそそれにあたる。自分には鈴の犠牲が彼らの命を救うために躊躇われるほどのものとはとてもじゃないが思えない。鈴がUの中のBelleに人生の全てをかけていて、それを失えば生きていくことは最早できないというほどまで執着しているならこの展開も理解できるが、劇中ではそういった描写は特になく、Belleに執着しているのはむしろヒロちゃんである。

 素顔で鈴が歌うシーンは周囲のリアクションが酷い。皆胸に灯が灯っていて、涙を流している。最上級の感動を表している。
「この歌を聞けばあまりにも感動しすぎてこうなるんですよ。さあ鑑賞者の皆さん感動してください。泣いてください。それが普通の反応ですよ」
と言わんばかりの演出だ。観客の心理を決めつけて誘導しようとする演出にしか見えず辟易する。もちろん感動する者もいるし感動しない者もいる。細田守監督は観客全員泣かせないと死んでしまうデスゲームでもやらされているのか。
 鈴がせっかくありのままの自分でうたったのにあっさりBelleに戻った時は本当に驚いた…何故戻したのか小一時間問い詰めたい。

 ラストの大体の場所しか分からないのに鈴が単身二人を助けに行くシーンは、あまりにご都合主義的で周囲の大人達の無責任さに怒りすら感じる。苦しむ子どもを救う責任を子どもに背負わせるとは最悪という感想しか出てこない。おまけに何も解決せず鈴は帰って来て仲間達に囲まれて嬉しそうにしているが、あの兄弟はどうなる。虐待という深刻なテーマを軽々しく扱い、感動のツールにしようとしているとしか思えない。そうではないとしても、そういう風に受け取るしかない軽薄な脚本だ。虐待という問題と戦う全ての人々に対する侮辱である。

 高知の風景が美しいアニメーションで見られたのは嬉しかったが、自分にとってはそれだけの映画だった。細田守監督作品は自分には合わないらしい。
 
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