フランス映画は観る機会がそうあるわけでもなく、ヌーヴェルヴァーグの中心5人に、セーヌの対岸派のより知的な存在、といった圧倒的レーベルが今はあるわけでもなく、アサイヤスにデプレシャン、ガレルと云われてもずっと出てきたばかりの人たちのように扱いっぱなしで軽いままに観てきてしまい、本作の監督も初見参で、また他の作品で観る機会もないかもしれない。しかし、なかなかに大したものと、興味は引かれた。3作も一時に紹介される作家ならば、1本位は観ておいても、という切っ掛けでしかなったが。
演奏、音楽、ツアーとステージといった確かな核の存在の手応え·確信はあるけれど、世事にまるで疎く·マネージャーの夫に頼りっ放し、ステージと他者との共演にも頑なに断る、キャリアも長い人気ピアニスト。細々したスケジュール組み、段取り、用立てに長じ、人間関係は巧み、且つ関係と発展に柔和な、事を荒立てるを避ける性向の、やや年下で間もなく40になろうとする夫。関わる人たちは出てくるけれど、もっぱら2人の関係·充実切迫度、可笑しみだけを追ってゆく。デリケートというより、可愛く微笑ましいけれど、じつは映画的視線は冷徹である。切返しやどんでんが割りと細かく、端正丁寧に刻まれてゆくけれど、サイズや位置の対応を、意図的に一体的まろやかなものから、ピタッは流れない様な違和·食い違いを付与し続けてて、見物ではある。執拗に滑らかなサイズ·近い物同士でのスムースさを排除し、特に前半はサイズ差大が短い間隔で、というスタイルで、しかもゴチッと引っ掛かる訳ではなく、それなりにスタイリッシュさをはみ出さないのだ。90°変のトゥショットでいいところを、余計にどんでんを返したりしてもいる。何で心地よく流さないのか、といって人間関係も、あからさまな対立·歪みを生むようなものでもない、何か我々も人物も気づいてないものが潜んでる風で、社会的位置付けの中で明らかに目をつむっている。夫は妻とのセックスは2人の愛の証しというより、過酷なステージをこなす妻の息抜き·骨休めだけのことでは、と疑ったりもしてる。次第に2人の立場の本質的差違が分かってくるのは、夫がある偶然で他人の生まれたばかりの赤ん坊を短い間だが、預かり抱いて、妻の歌に匹敵する自らの感覚的·生理的拠り所を肌で感じてからだ。そこから、スケジュール調整、妻の意識改革、飲み続けてる避妊薬の差し替えで、慎重に慎重に事を進め、いつしれず妊娠·出産のルートを築いてしまう。用心して、一般家庭家族への接近を遠ざけてきた妻だが、計算·前以て距離を計れない流れで、夫を中心に自分以外の存在の脇にいたり·いなかったりする事の意味、自らの世事の習熟の必要に迫られる。カット割りは、べつにいきなり一体的になるわけでもないが、予測のつかない位置·動き·対応·ホット始原の押さえのウエイトに移行し、夫の妊娠に向けての企みが偶然分かって、怒り憤り心頭でも、別に破局に届くわけでもなく、各々の顔·生まれたばかりの子供も含むのへの、妙に定まらぬ前後ズームが味とニュアンスを出してきたりするのである。
妊婦の姿にしても三つ子?というくらいにつき出してくるし、旦那も妊婦初期位には腹が出てきてる。しかし、展開·シチュエーションでそれは取り沙汰されることもなく、妻のついさっきまで何より大事だった業界のウエイトも、作劇以上に一気に薄れてゆく。正直、生真面目な所から見ると、本作のスタンスが掴みにくい。しかし、それでいいのだ、とバカボンのパパ張りに納得も自然出来てく世界ではある。