ゆず

偶然と想像のゆずのレビュー・感想・評価

偶然と想像(2021年製作の映画)
4.2
ロメール
長編映画って、関係性が1個変わってもまだ続いていく何かがある気がするが、短編は短いからこそ関係性が1個のピークに達した時にパッと終わることができるので、その分何か鮮烈な印象を残すこともあるんじゃないかと。人物がこの先どうなっていくんだろうという気持ちも持ちやすいというところがある気がする。長編はもうちょっとうねりがないといけないし、ある種のリアリティみたいなものを結構緻密に作らないといけないという感じ。短編はそのリアリティという観点からも、ちょっとだけ現実から浮いたような話がやりやすいというのがすごくある。個人が生きる力を手に入れたところで終われるのが良いということは、短編・長編に限らず思っていること。偶然が持つリアリティをストーリーテリングの要素として、構築していけるのかを実験しようとした。脚本段階では、第1話は「噂の男」というタイトルだった。

想像というのは、ないから想像するという側面がありますが、偶然の方は、稀な、ほとんどあり得ないことなんだけど確かにあることなんですよね。つまり、偶然はその境界面の「ある」側の方に、想像は「ない」側の方にあって、その現実とフィクションを取り違えさせる、あるいは超えていくために、この2つは表裏一体の役目を果たしているんじゃないかと考えているところ。ある種の欲望や欲求というか、「こうでありたい」と思うことが、すべての核にはなっていると思う。欲しいものがあるからないものを想像する、あるいはそれを手に入れたいからウソをつくとか。そういうことを含めて想像の役割だと思うが、本当に欲しいものを現実のものにする時に、やっぱり自ら飛び込んでいく必要がある。そして、その飛び込んでいく対象というのは、ある種の偶然によって現れるんだと思う。ルーティンで構成されている自分の人生に訪れる、本当はこちら側の人生に開かれていきたいと思っているその偶然にうまく飛び乗れるか、自分を投げ出せるかということ。 
喫茶店の隣の席で2人の女性の会話。
扉が開いた部屋の中でサスペンスフルな状況が起きているのに、生徒たちがそれに気付かずに廊下を通り過ぎていく

偶然を描くうえで、通り過ぎるか、通り過ぎないか、が大事なことだと思う。世の中いろんなことが起きるわけですが、だいたいのことは自分に関係ないこととして通り過ぎる。ただ、ある種の出来事を前に、おや、と立ち止まることもある。それが偶然を摑まえるということなのかもしれない。本来ならただ通り過ぎるだけだったろうポイントで立ち止まることで、それまでとは違うルートが開ける。日常だといつもの通り道で、ただ通り過ぎるだけですが、そこで何かに気づき、立ち止まる。今回の映画では、解決に偶然を使うというよりは、発端に偶然がある。この映画の登場人物らは皆かなり普通の人たちなのですが、その偶然があること、偶然が介入することで彼らの日常が歪んでゆく。それを描こうとした。
映画って最初に発端(偶然)があって、それが人々の想像を掻き立てながら進んでいくものだと思う。構造的に「偶然の出会い、そこから何かが始まりました」と最初に使うのは使いやすい。でももう一回偶然を出すと「あれ?都合が良くないですか?」ということになる。でもタイトルに「ドン」と入れておけば「これは『偶然と想像』の話なんです」と「偶然が再び起きて、ちょっと都合がいいかもしれないけれども、わかった、じゃあどうなるんだ」と理解して観てもらえるのではないかと思って『偶然と想像』というにタイトルになっている。
 第3話の元ネタは、ジャック・ドワイヨン監督の『ふたりだけの舞台』(1992年)という作品。その映画は夫婦が危機的な状態に陥っているんだけれども避暑地の別荘で違う2人として演技をしていくうちに2人の本当の関係性が出来上がってくるというストーリー。出演は2人だけで、互いに演じているというだけでサスペンス。演じることでかえってその人の本心が見えてくるのも。

「人に見せる、期限を決める」それが脚本を描くうえでは本当に大事なことだと思う。シューマンの『子どもの情景』の「見知らぬ国々」。竹内まりやの『もう一度』を聴いたりしながら、脚本を書いた。

バスのシーン『あの夏、いちばん静かな海。』を連想させる
ゆず

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