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流浪の月のharunomaのレビュー・感想・評価

流浪の月(2022年製作の映画)
1.3
壊滅的だけど、続けなければならない産業芸術の魂の抜け殻。
東宝『怒り』に比べての感想。
重厚さの欠片もない。疑わしい主人公。反メロドラマ。サスペンスですらない。
フラッシュバック(3つの時間のマッチカットすらある)は背景の、語の意味通りの説明に終止する。物語は特殊事態、属性、状況の開陳に終わり、てんこ盛りのキャラクターの属性は、主題を明確化しえずに混乱する。ここにあるのは社会や世間の無理解、レッテル張りのそれではなく、むしろ物語は、寄る辺なき二人の情動を信じるのではなく、ポリコレ遵守の言い訳として機能しているようにしか見えない。つまりマイノリティを囲い込むシステムそのものを温存する作法であるかのように、周到に個人の表明を消し去っているように見えるのは、当事者そのものが権力装置の暴力と法を裏返しに抵抗する意志を、見せることもなく、ただ漂っている。

その点で、ひとつの発動が広瀬すずに見えもするが、果たして女性映画と言えるのか。法は愛を証明できない。法の狭間の二人。名付け得ぬ復讐が、反復として愛そのものを提示できたはずだが、2時間30分はあまりにも長すぎる。世界に二人がいるのなら、まずその、のっぴきならない絆を現在進行形で提示すべきだし、それを正面切って愛と呼べないのなら(周到に物語の主題が絶対的距離を殺すように作動しているのは、言い訳としての外にある構造の問題ではなく、単に作者に勇気がないのだ信じていないのだ)、そもそもが再会を果たすべきではない。同様の関係の駆け引きとして『ナラタージュ』が思い浮かぶが、こちらの流浪の方は、ロマンティシズムも痛快さの欠片もないダウナーな映画。作家でもエンタメにもならない反メロドラマという体たらく。あの匿名の、誰のものでものない『怒り』はここには存在しない。犯罪逃避行の活劇には絶対にしないということだろうが、あのソウルミュージックのシーンの寒々しいダダ滑り感はギャグにもならない。店の名前そのままに阿方だと思う。そろそろ広瀬すずに広瀬すずを還すべき時だ。つまり台詞なし、演技なしにそこにいる時間をつくれ。おそらく20年前のガス・ヴァン・サントかジャームッシュなら、根源的な場所へ戻る。

 カメラのパンニングも面倒で、道中を省かない時間で何かが生まれることはなく、1カット手前奥のピン送りも粗雑な酔狂にしか見えない。
オフの物音から始まるはいいとして、ファーストカット、ぶらんこのショットが大ロングの俯瞰ではなかったことが『接吻』とも『グブラ』(正確には違うが)とも違い、むしろその二作品を観ていない映画の知性のなさを示す。韓国の撮影監督、このカメラの凡庸さは言うまでもなく野暮ったいに尽きる。中村裕樹も回ってないこと、笠松則通の方がいいというスタッフワークの杜撰さを見るにつけ、川村元気がいかに偉大であったかが思い知らされる。

 私は北野〔武〕のフィルム、『HANA-BI』〔一九九七〕を見て、まったくすばらしいと思ったが、ほかの作品まで見に行こうという必要を感じない。たぶん、それほどいいとは思わないだろう。キアロスタミについては、見事な作品を一本と、別の出来の悪い一本を見た。
 彼には続けざまに三本の出来のいいフィルムを作ることができなかったんだ。もっとも、私にもそんなことはできない。平均的な質がかなり低下しているんだ。

 世紀の伝説 P88 『ゴダール・映像・歴史』 ジャン=リュック・ゴダール

桟橋の逮捕の瞬間とたべちゃんの科白の瞬間だけよかった。
たべちゃんが唯一、現実を繋ぎ、放って置くと幽霊になる二人の少ない磁場となる。多部が一枚上手。横浜流星は単独の頑張りながら、まぁ劇中誰一人《反射》はしていなかった。内田也哉子はほぼ飛び道具のような2シーンだが、これ以外に正解はない。というか原作も脚本も意味不明にメンヘラすぎる。一周回って、人間を馬鹿にしている。
立て続けに傑作を撮れないという。
属性の説明を提示され、それを超えていかない情動はほとんどどうでもいい泣き言のプラトニックということで、駄作の『悪人』に戻った。『怒り』のようにしかるべき大人の俳優を対峙させるか、配置すべきだった。アメリカ映画なし。あるいは物語の主題を一つに絞るべき。この半端さは製作段階によるだろう。どこぞのプロデューサーだと。フィルモグラフィーを見る限り、このUSENの宇野康秀、製作総指揮というのは完全に馬鹿だと思う。どうでもいい中途半端な露悪映画を作っている。U-NEXTには二度と加入しまい。
『怒り』から広瀬の主演は順当としても、企画が違う、叫び声(ある少女の受難だとして)も水に消える。
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