YokoGoto

流浪の月のYokoGotoのレビュー・感想・評価

流浪の月(2022年製作の映画)
4.5
<愛と呼ぶには、あまりにも繊細で残酷なその輪郭>
【ご注意】ネタバレに気をつけて書いていますが、気になる方は、鑑賞後にお読みください!

*動けなかったエンドロール

エンドロールが流れると同時に、小刻みに胸が震えた。

胸が震えたのは、物語に感動したとか共感したとか。

そういう大雑把な感情からくるものでもなく、かといって、悲しみとか哀れみとか具体的な言葉の形にできるようなものではなかった。

ただただ、目の前に映し出された物語の世界に没入し、揺さぶられた感情が処理できなくなって、カタカタと音を立てて動き出したのだった。

映画『流浪の月』の原作は、2020年本屋大賞を受賞した凪良ゆう氏のベストセラー小説。

それを李相日監督によって映画化された。本屋大賞を受賞してから、多数の映画化のオファーを受けていたそうだが、『李相日監督作品なら』と、多くのラブコールの中から選ばれたのだという。

凪良ゆう氏の原作は未読ではあるものの、作品の内容からすると、たしかに李相日監督なら、納得いく作品に仕上がるだろうと思えたのには合点がいく。何作か、李相日監督の過去作を観たことが有る人なら、その親和性が高いのがわかるであろう。

案の定、映画『流浪の月』は素晴らしい作品であった。

ラストシーンで暗転した真っ黒な画面に、真っ白な活字のエンドロールが流れる。
美しくも儚いピアノの旋律にまとわれながら、そこで起きたことを、必死に整理しながら、ただただ、映画館のシートに深く身を委ねる。エンドロールが終わるまで、そんな時間が数分続いた。


*真実は二人だけのもの

映画『流浪の月』のあらすじはこうだ。

あらすじ
物語の始まりは15年前の少女誘拐事件。10歳の更紗(さらさ)は、公園で一人でいたところ、当時大学生(19歳)の文(ふみ)に声をかけられ、文の自宅へとついていく。その後、更紗の失踪は誘拐事件として報道され、湖で二人でいるところを保護され、文は少女誘拐の罪で逮捕される。15年後、更紗は恋人ができ、普通の生活を送る中、偶然にも文と再会。その後、二人の運命は大きく変わていく。
あらすじは、比較的分かりやすく、少々ありふれた筋書きにみえる。

しかし、映画『流浪の月』は、そう簡単には、観客の心を導かない。

誘拐されたとされる10歳の更紗と誘拐犯とされる19歳の文の、狭いアパートでの生活が、この物語のすべてだと言っても過言ではないだろう。二人の生い立ちや家庭環境については、ほとんど説明はなく、二人の行動や仕草、かわされる少ない会話のシーンで表現されている。

大学生の文の表情と、のどぼとけから振り絞るような哀愁を帯びた言葉。
規則正しく質素に丁寧に暮らす青年。
そして、10歳にして、何かを悟ったかのような大人びた表情を見せる更紗。

一つ一つのシーンをかみしめながら、この場面で観客たちは、幼い二人の全体像を理解していくのだ。

ここの表現は絶品だと思った。

必要以上に説明せずに、絞り込まれた数少ないセリフで二人のシルエットを描き出す。そこに、美しい光をあますことなく表現した映像美も本当に素晴らしい。

ゴシップ好きの下世話な大人たちには、とうてい想像できないほどに、さんさんと美しい太陽の光が降り注いでいた。


*観たいようにしか観ない人々

誘拐されて傷ついた少女と、子供を誘拐した卑劣な犯罪者。そんなレッテルを背負いながら、ひっそりと暮らす二人。

偶然にも15年後に再会する事で、その後、2つ目のパートが展開していくのだが、ここからのパートの二人の運命もすさまじい。

誘拐事件は世間に忘れられることなく、観たいように観る人々は、二人をほおって置かない。

センセーショナルな事件の見出しは、人々の興味をかきたて、可愛そうな子と卑劣な犯罪者というレッテルは、どこまでもどこまでも追いかけてくる。

そうだ。

誰にでも心当たりがあるだろう。

事件が興味本位であれば有るほど、あれやこれやと想像し、事件の背景や真実などどうでもよくなる。自分の限られた価値観や物の見方で、暴力的な刃を事件の当事者たちに向けてしまうのだ。

限られた情報だけを頼りに、テレビに映るコメンテーターたちは、無責任にも正義の刀を縦横無尽に振り回し、違う意見など受け付けない。一方的な正義は、あたかも、唯一の答えのように烙印を押され、それを観た世論は一つの塊になって一方向へと流れ落ちる。

それはまるで、突然起こった土石流のような残酷さだ。

自分の価値観では処理できない事件であればあるほど、必ず一方からの物の見方をして、自分と遠い所にいる見知らぬ誰かを傷つけることなど想像しないだろう。

そこに、真実は何かなど関係なく、世の中は、ただ消費されるスキャンダルの種を探しているだけである。

観たいようにしか観ない人々。
そういう、私自身もそうだろう。

映画『流浪の月』は、物言わず、私たちの一方的なものの見方を断罪するようであった。


*それは愛と呼ぶには、繊細すぎる

時に、メロドラマは「愛」というものを形にしようと描きがちである。

好きか、嫌いか、結ばれるか、結ばれないか。

はたまた、その愛は善か悪か。

それは、答えがあれば観る側が安心できるからだろう。自然と書き手も、観客に答えようと、明確な答えを用意しがちである。

しかし、映画『流浪の月』は違う。私たちが求める「愛」への答えは、一切、描かれない。そこに描かれているものは、いったい何者なのか。「愛」とするには、あまりにも重たすぎて繊細で、激しい荒波よりも穏やかな湖の波紋を好む世間には、決して、簡単に理解はできないであろう。

しかし、そこにある、ぼんやりとした輪郭は激しく胸をゆさぶり、何かをみつけたくなる。そんな気持ちにさせてくれる映画でることは間違いない。


*月は女性の象徴、母を感じさせる淡いデイムーン

そして映画には、もう一つの大切なワードが隠れているように思った。

それは、タイトルにもある「月」である。

人間にとって月とは、ほんとうに特別な存在である。
特に、月に影響される女性にとっては、より特別な存在であろう。

どこかで、月とは「女性らしさ」「優しさ」の象徴だと聞いたことがある。それ故に、母性の象徴でもある側面もあるようだ。また、月は満ち欠けを繰り返すため、「成長の象徴」でもあると、どこかで見たことがある。

流浪の月の物語には、こんな月に込められた、上記の大切なキーワードが含まれている。このキーワードは、私たちが生きていく中で、最も大切にしたい自尊心やアイデンティティを形作るものであろう。しかし、これらのキーワードは、物語の要所要所で、残酷な姿で形を表す。直視できないほどに残酷ではあるものの、私は目をそらすことができなかった。

主人公たちが眺める、淡い光を放つデイムーン。
特別な光で彼らを照らしている。

*映像美と美しい音楽

映画『流浪の月』は、シナリオ、演出、キャスト、すべてにおいて、その質の高さを感じさせる映画である。

その中でも、私が好きだったのは、その映像美と美しい音楽である。

本作の映像監督は、韓国映画「パラサイト 半地下の家族」や「バーニング 劇場版」の撮影監督であったホン・ギョンピョ氏。いずれも、私の大好きな映画たちだが、特に「バーニング 〜劇場版」の映像は、ほんとうに唸るものがあった。

今回は、邦画の映像監督として、クルーに合流したが、その映像美は本当に素晴らしいものがある。

この重たいテーマの中、美しい光と色彩をたたえた映像は、大胆でありつつ緻密でもあり、まるで観ている観客側まではみ出して飛び出さんばかりであった。

映画「流浪の月」の品質の多くを支えたのが、ホン・ギョンピョ氏による画づくりがあってこそ、と言っても過言でないくらいだろう。

また、映画を演出するにかかせない音楽も素晴らしかった。

それぞれのシーンを彩る、美しい音楽が、映画の世界観を支えてやまない。

映像美にふさわしい、美しい音楽は、観客が物語に引き込む要素を兼ね備えている。これら、映像と音楽のコラボレーションは、あの有名な映画監督であるグザヴィエ・ドランの名作、「Mommy」を思い出させるものがあった。

*苦しみに耐え抜いたあとには、優しい月の光が包んでほしい

本作、映画『流浪の月』は、決して万人受けする映画では無いと思う。

物語としては、苦しさに救いがなく、投げられた問いへの答えすらない。

それでも、いろんな角度から光を観る「流浪の月」は、必ずや、誰かの胸を大きく揺さぶることであろう。

本当に大切なのは、何か、正解や答えを決めつけることではなく、100人いたら100通りの苦しみや悲しみがあり、その苦しみや悲しみが生まれるキッカケや理由があるということを、手探りしながら想像してみること。それだけで、何か違う世界が広がることであろう。

過去も未来も、舗装されていない泥濘んだ山道かもしれないと知りながらも、そこを歩く人達には、必ず優しい月の光が暗闇の中を導いてほしい。


そう思わずにいられない。
YokoGoto

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