MaikaGoto

名付けようのない踊りのMaikaGotoのネタバレレビュー・内容・結末

名付けようのない踊り(2022年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

“踊り”というものは、映像には映せない。
場踊りはその場を共有していないと到底面白くないと思っていた、と泯さんは言っていた。
この映画は、犬童監督の手で切り取られ繋ぎ合わされ再構成された、新しい踊り。
“観客”という人間も“場”になるんだなぁと思った。
泯さんが、「わたしは、わたしという身体に住まわせてもらっている」と言っていた。
ひとりひとりの身体が空間になり、それぞれの中でそれぞれ別の泯さんが踊っている、
そんな映画だった。

長野県上田市で買った『二度と行けない(上田の)あの店で』を読んだ時にも感じたことだけど、
各々の記憶とか思い出とか見た景色とかは何も共有することができない、
文章やら写真やらで記録することは出来ても。
例えばあのお店のシュガーポットが日に透けると茶色からオレンジになって、、とか、
あそこの本屋は埃と一緒に甘いバニラみたいな匂いがして、とか
きっとそんなこと他の誰も覚えてないし考えもしてなかったことで、
お店がなくなった後にその話をしても共有することは出来ない。
それは泯さんの踊りにも共通することで、その時の自分の精神状態とか、
場にいた人たちとか空気や温度、
刻一刻と変わる泯さんの身体表現、そのどれも一瞬を都度自分の肌で感じないと分からない。
きっと見ていたその瞬間の自分と見終わった自分ですら、体験を共有できないくらい生ものなんだと思う。
人間という生き物は珍しく群れでは生きられない、産まれてから死ぬまでずっとひとりの生き物だ(と、これも泯さんが言っていた)。

その場の空気や人の気配、ただそこに居て、ただ踊る。
犬童監督に「演技は出来ないけれど、ただそこに居るということならずっとやってきたから出来ます」と言ったそうで
それってよっぽど“場所”というものを感じられないとできない技だなと思う。

踊りは、元々は神聖な生き物だったり死者だったり、そもそもは人同士もそうであるように
言葉が通じない人へ想いが伝わるようにという、ある種祈りのようなものであって、
そこには第三者への感情は一切ない。
泯さんの踊りは、誰かからの目を気にするでもなく衝動で踊っていて
理解させようという魂胆はまるでなかった。
途中まで何を表現しているのかと理解しようとしていたのに結局最後まで読み取れなくて、あぁ解らなかったなと悲しくなったけど、
最後に踊り切った泯さんが「あぁ、 幸せ」と呟いて
あぁ、幸せなのか。と全て許された気持ちになった。
個々の真剣さ、幸福感は伝染する。
クリエイティブの根幹はそこにあると思った。
MaikaGoto

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