ドンキーホーグ

オッペンハイマーのドンキーホーグのレビュー・感想・評価

オッペンハイマー(2023年製作の映画)
3.9
日本人だから見る/見ないというナショナリズム的な考えは全く不要 
核の脅威が常にあるこの世界に生きている人間誰もが、共感できる絶望/恐怖/諦観に基づいた作品だと思う

戦争映画と言うよりは、1つの伝記映画として良くできている
第二次世界大戦という世界を生きて、原爆と政治に揉まれた一人の男。その一人にフォーカスを当てて、丁寧に描いた作品。

ダンケルクと同様、戦争映画なのにゴア表現が無く、血飛沫の1つも無いのは実にノーラン的。
重厚な人間ドラマで視聴者の感情を煽るというよりは、一歩引いた視点でニュートラルに観察している感じで、これもノーラン的。

その一方で、現実と想像がビジュアル的に交差する「詩的」な演出はらしくないというか、新しいなと思う。常にオッペンハイマーの現実を侵食してくる核の恐怖。
そしてコズミックホラー的な宇宙/原子/量子力学/相対性理論に対しての恐怖演出も、アーティスティックだけど同時に美しくてこれもノーランとしては新しい。
美麗なグラフィック、中年男性の回顧録という点で、Tree of Lifeの感もあり。
人間は、恐怖や惨劇の中にも、美しさを垣間見る。我々は芸術を通じて、その端くれを仮想的に体験しようとするのだろう。

ただ、いつものノーランの時間軸を弄くるのはやめたほうが良かった。2つ3つの聴聞会と原爆開発までの流れが同時に流れるのは演出としてはやり過ぎというか、白黒とカラーで分けているにしても判別が困難だし、ギミックとしても別に上手くない…

ニュートラルな視点で描いているということはつまり、そこまで感情的な積み上げのようなものがなく、「チェルノブイリ」のような人間ドラマにはなっていなかった。このウェルメイドなドラマと共通する点は多い。つまり、科学者として生きてきた人間が未曾有の事態に巻き込まれ揉まれ、突き動かされてその中にドラマがある。映画というのはやはり、極限の状態に置かれた人間がどのような行動を取るのか/取ったのかに焦点を当て、どれだけそこに共感できるのか、何を思うのか、というようなことが1つの主流なテーマだと思う。ノンフィクション・フィクションに関わらず。ノーランの写実主義的な作品作りはリアリティという点に置いて、そのようなテーマを描くのに適しており、さらに伝記ものともなれば新しくすら感じられるほどの魅力も相まって非常に相性がいいと思う。

原爆の被害描写がチープなのは、現場を見ていないオッペンハイマーの想像の限界を示しているのだろうか?
原爆開発というよりも、ポリティカルな側面が強く、劇中の台詞にもあるように「物理学者というよりも政治家」で、やはり戦争映画というよりは本当にオッペンハイマーの主観にフォーカスを当てた伝記映画だなぁと思う。

つまるところオッペンハイマーの頭の中にあったのは…そしてノーランがこれを作る上でメインに据えたのは、「大規模核戦争による人類滅亡」に対する恐怖だった。広島・長崎は既に起きてしまった。そして冷戦があった…現状人類は自分たちを何度も滅ぼせるほどの核兵器を保有している。
さながら「大気発火」のように、核攻撃とその報復が、連鎖反応として地球全体を核の海に飲み込んでしまうのではないか?(誤解を恐れずに言うなら)このような「大局的」な視点で描かれた作品だ。

原爆が落ちた広島の人のリアリティに触れたければ「この世界の片隅に」をぜひ。


---再鑑賞後追記


オッペンハイマーは一度見ただけでは、全く意味が分かりません。説明もなく時間を行ったり来たりするので、見ている方はしっちゃかめっちゃかに感じるはず。

というわけで、ざっくりこの映画の構造について、ここで解説し、それが見る人の手助けになればと思う。この映画はTENETと同じで「意味が分かると面白い話」 なのだ。

この映画の構造は、モノクロとカラーで大きく2つに分割できるが、時系列を含めると大きく3つに分割できる。そして、構造的に少なくとも2重の意味を持っている。

まず大前提として、カラーではオッペンハイマーがメイン、モノクロではシュトラウスがメインとなっている。

本編(カラー、若きオッペンハイマー)

分裂(カラー、壮年オッペンハイマー)

融合(モノクロ、シュトラウス)

『0.本編』(便宜上こう呼ぶ)は、若かりし頃のオッペンハイマーが、どのようにして原爆を開発するまでに至ったのかを、『1. 分裂』の時点のオッペンハイマーが回想する形で時系列に沿って描いている。

「2重」の意味についても説明する。

分裂と2.融合は対になっている。
そして、『A.オッペンハイマーへの批判』と『B.オッペンハイマーの名誉回復』の2つの意味を持つ。

A.オッペンハイマーの批判
というのは、1においては公聴会委員から、そして2においてはシュトラウスから、あらゆる角度での批判を受けるという形になっている。

B.オッペンハイマーの名誉回復
『1.分裂』において、オッペンハイマーは謂われのない誹謗中傷を受ける。
この状況を作り出した、黒幕のシュトラウスが『2.融合』において全く同じ形で「仕返し」されることになる。2つに共通するのは、どちらも「形だけの理不尽な裁判」であるという点。
ただシュトラウスの方は実際にオッペンハイマーを貶めた罪があり、オッペンハイマーは赤狩りの風潮とシュトラウスの謀略により地位を奪われただけという形だった。
シュトラウスによる謀略を暴くことで、オッペンハイマーの名誉をきちんと回復しようとしている。

そしてこの映画全体を牽引するのは、『誰がなぜオッペンハイマーを陥れたのか』というミステリーだ。良く出来ている。

映画のファーストカットは、ほとんどの監督最も注意を払って作る部分だろう。特にノーランはそうだ。本作のファーストカットは雨の「波紋」。若かりし頃のオッペンハイマーが、そこに核戦争により破壊される世界地図を予見している…というカット。本作に度々登場する、象徴的なカットだ。オッペンハイマーは、自身が核戦争による滅亡への引き金を引いてしまったと感じており、アインシュタインと『連鎖反応による大気発火』について議論するシーンや、水爆開発の会議で度々この波紋のカットが登場する。

スパイク・リーは「私なら実際のにほんの被害状況を描く」と言ったが、オッペンハイマーが憂いたのは、広島・長崎だけではなく、世界全ての滅亡だったことや、投下時の被害状況を直接見ていないことを考えると、そのような描写がないのは特に不自然だとも思わない。
ここから感想

世の中は「改めて考えると、良く知らない」物事で溢れている。「唯一原爆を落とされた国」に生まれたことで、授業でも詳しく習ったし、毎年黙祷を捧げ、ある程度の核に対しての意識は持っていたつもりだった。
ただ改めて真剣に「どうやって、誰が」原爆を作ったのか、を眺めるのは非常に興味深い体験だった。

「必要は発明の母」とは良く言ったもので、テクノロジーは戦争によって推し進められる。レーダー、腕時計、インターネット…数え上げればキリがないだろう。
だが、そこに並ぶように原爆が来るのは非常に奇妙な感じがするものだ。新しい知識を求め、まるで新製品でも開発するようなポジティブな姿勢で、大量破壊兵器が作られる様は、現実とは思えない。
優秀で聡明な科学者が集まり、精密な科学に裏打ちされた想像を絶する力を持つ兵器。人類とは何と奇妙な生き物だろうか?


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劇場再鑑賞につき追記

フルサイズIMAXが本当に気に食わない。ノーマルIMAXとシネスコ、フルサイズ。フルサイズでしか成り立っていないフレーミングなのに、Blu-rayリリースにそれを含めないのも意味分からん。
フルサイズとシネスコ比率をとにかく頻繁に行き来するので気が散る。具体的には、カメラが主人公たちの顔に寄る+会話になるとシネスコになる。IMAXカメラの駆動音のせいだからこれは分かる。問題は、会話シーンは全部シネスコにすれば良いのに、合間に無理やりIMAXショットを挟むから、別のシーンを見ているみたいになること。チカチカチカチカ…全く良くない。

一番終わってると思ったのは、あの特徴的なキノコ雲がBD版、通常IMAX版だと全体像が映ってないというところ。何を考えてるのか分からない。みんなが見る、記録に残る唯一のバージョンがそれってさ。フルサイズではきちんと見えてたけど、劇場公開されてるほんの一部の期間だけ。

というか無理して爆発を実写にする必要ない。アップだけ実写、遠目では実際の記録映像を使えば良かったのに。
https://youtu.be/aXQg84SGszM

本当に今回のフルサイズIMAXの使用は失敗だったとしか言えない。爆発のシーンはこれのせいでゴジラマイナスワンの方が数百倍も良かった。



あと字幕の位置が致命的。なんで登場人物の顔に被せて置くんだ?
字幕の内容も…ところどころナイスな訳もあったが、基本的には質が低い。センスがないというか、日本語力が低い。誤訳もあったし。

あとこの映画自体が、他の言語で見ることを全く想定していない。ノーラン特有の言い回し、時系列のシャッフル、弾丸のようなセリフの連続と、登場人物の多さ。

これで初見で映画館で見てちゃんと意味が分かる日本人なんか、ほとんど居ないと思う。