ロッツォ國友

カッコーの巣の上でのロッツォ國友のレビュー・感想・評価

カッコーの巣の上で(1975年製作の映画)
5.0
1975年に撮られた、若かりしジャックニコルソン様と当時のアメリカの精神障害者の扱いを写した歴史作。
暗い現実や閉鎖区間でまかり通る理不尽をこれでもかと表現しながら、それでいて主人公マクマーフィの明るさと雰囲気の暖かさで暗くなりすぎない展開がなされ、最後には希望まで見せてくれるフルコース映画である。

「当時の」と表現したのは、まず古い作品だからだし、この作品が社会風刺作であることが明白だからだ。
じゃあ今となってはただの歴史のお勉強資料なのかと言えば、答えはNOだ。この映画から放たれた矢は、現代の社会にも突き刺さる。


マクマーフィは、しょーもない罪で服役したが、刑務がイヤになり狂ったフリをし、精神病院にやってきた。そこには当然「閉じ込められた変人奇人」が掻き集められてると彼は思っていただろう。

初日からニヤニヤしながら彼らで遊ぶマクマーフィ。
しかし次第に、誰のための治療なのかもわからんやり方で中身の分からん薬を飲ませるだけの病院の体制に疑問を覚え、また入院患者達と向き合い、バスケやエア野球観戦やギャンブル三昧を通して文字通り歩み寄って打ち解け、病院そのものと闘うお話だ。
これだけで充分観る価値アリなのだが、これでは終わらない…のでこの映画は超長いのだw



「カッコーの巣の上で」という邦題。
One flew over the cuckoo's nest(カッコーの巣から一羽が飛び立った)という原題。
どっちも良い味わいだ。まー原題の方がより内容に即している感じはする。
カッコーという鳥は自分では巣を作れず、モズなど他の種類の鳥の巣に勝手に卵を産み付け飛び去る。生まれたカッコーのヒナは、周りにいる本来のヒナ鳥達を全羽巣から叩き落とし、親でもない親鳥からの餌を独占して成長し飛び立つ。
だから本来、Cuckoo's nestなんてものは存在しない。親が作ったわけでもない巣に守られ、親でもない存在に保護されて生きる。「カッコーの巣」が精神病院の隠語になった由来だ。

劇中の病院は社会の偽善そのものである。
精神障害者は頭が変だし触れたくないからテキトーに閉じ込めて無意味なグループワークに精を出しててくれ、という民意で動いている。それに見事に教育された患者達もすっかり順応している有様。
福祉の専門用語を使えば「強いられた自己決定」というやつだ。
本来の巣など最初から無いはずのカッコー達は、そこが自分達の居場所だと信じて疑わない。



病院の悪い人達にマクマーフィが立ち向かう!!的なストーリー説明がよくされているが、途中でこれは半分ほどひっくり返る。

「若い盛りに自ら入院だと?女のケツ追い回してる時ごろなのに…
陰でブツクサ文句垂れてるくせに出ていきもしない。そんなにイカれてんのか?
そんなことない。街を歩いてるバカどもと変わるもんか。」

…というセリフを狼狽えながら言っていた。
悪い病院の体制とやらに、被害者として映っていたはずの患者達自ら半分加担していた…患者達の半数は入れられたのではなく自分の意思で入院していたのだ。街を歩いてるバカどもと変わらないのに、精神疾患の称号を頂いて見事社会の望み通り病院に飼われに行っていたのだ。
だから結果的には、マクマーフィが立ち向かったのは病院というより病院の中にできていた雰囲気だった。


途中でマクマーフィが洗面台?か何かを外そうとするシーンがあるが、この構図そのものがこの映画の展開の全てを物語っている。
マクマーフィは出て行くためにコイツを外すぞと宣言し洗面台に力を掛ける。皆はムリだムリだと言いながら目が離せない。
結果から言えば、彼自身は何一つとして成すことができない。でも、率先して変えられそうにないものに立ち向かったこと、それを見て、少なからぬ者達がそれに感化され変化したことで、この無謀な挑戦は意味を持つのだ。



美しい自然の景色へ、自分の巣ではなくなった場所から一羽のカッコーが飛び立ってゆく。
行き着く先は描かれない。しかし、光に向かっているその後ろ姿からは、悲痛さは感じられない。
これが希望でなくて何なのか。


繰り返すが、1975年の映画だ。今の時代に向けた社会風刺では断じてない。
だが今、健常者のエゴと自己満足が作った体制に飼われる精神障害者がいなくなったとは到底思えない。
だからこれは今を省みる鏡に成り得るのだ。1975年当時の障害者の自己決定への鋭い問題提起は、現在を生きる、障害者にとどまらない全ての人に向けられている。


少し長いが、廃れることのない鋭さが色濃く心に残る傑作だと思う。
ロッツォ國友

ロッツォ國友