逃げることは逃げ場を探し求めることである。探し求めることは逃げ場を見つけることである。つまりは、互いが互いを求め合っている。
いつの時代も過去に想いを馳せるのが典型的な文化人だが、妄想を具現化してしまった捻くれ者の作品。
踊り続ける事に理解を示さないと大変な事になる。歌い続ける場合には止めなければならない。特に凡庸なライブシーンでは。歌は凄い。
有名になり過ぎたシーン以外が狂気を演出しているため、初見では恐怖を感じるだろう。
最後の爆発のために色々と取っておいた(撮っておいた)部分が煌めいている。
ビートたけしのヤバさは北野武を凌駕し、本人もあえてそれを(無意識にかもしれないが)使い分けているように思える。
人はなにか名義を変える時、理想的なものへ少しでも近づこうとする。それを上手くシステム化し>>続きを読む
個人的なことに突っ込む割にすべてが雑に描かれた本作は、どこか観ていてツラい感動作となっており、バディものとしても外している。スパイク・リーの作品を観た方が100倍良い。
煙と彫刻がこれほどまで合うという発見をしたことだけでも価値のある作品。
詩人はどこふく風、探偵が言葉を奇妙に扱う。この逆転した構図が、安定感をもたらしている。
ジョン・べルーシが笑わせるのは、彼がいなくなったことを忘れさせるから。けれども死者は踊る。予兆があった。
どんな形でも存在する事に大きな価値を見出せる。もしこうあったならどれだけ幸せだったろうか(しかしそれは誰にとって?)。
見つからない物語を現地で調達し、作り上げる即興さを組み込むことはナレーションが多い理由となる。
火が象徴的なのは、ゴッドファーザーの観念がオブセッションになっているからだろう。全て燃やして忘れて(馬鹿になって)しまえ。そして新たな物語に組み替えた。重厚さは損なわずに。
洞窟のセックスでお茶の間にカマしたおかげで『犬神家の一族』から離れたが、渥美清が金田一の時点で既に離れていた。
歳をとり、Vシネマに登場したショーケンがこれまで見せたのはVシネマじゃなかったんだってくらいいつもと変わらないヤバさをまとっている。
全員の無軌道さは多面体のなかで乱反射する光のようで、交わった時に何かを失ったみたいだ。
ジュリーとショーケンが並ぶこと、実はこれは不穏である。噛み合っていない。しかしそれを絡み合わせるのが、田中裕子のタコ。
ある時期の俺に似ていると思うのは、自惚だろうか。そう思う映画が一本あれば幸せだが、俺にとってはこれだった。
幻想の中で生きることを夢二のある部分に当てはめた。それはある時期であり、ある場面だが、これが起こり得たのが大正時代である。
相棒が死ぬことが予告されるかのような見事な展開である。そして結果的に死ぬ相棒は物語によって動かされた死であり、彼が死なずには物語が進まない悲しさが在る。
戻ることとやり直すことは違う。そして繰り返すことはさらに違う。行動の変容によって結果が変わるなら、それはパラレルワールドに過ぎない。ただ、いくつも先、パターンがある。それだけなのだ。それをいくつか観せ>>続きを読む
楽園は道路にあり、それはアメリカ的である。サイケデリックも実際のところ大事なのは道筋で、どう到達するか、なのだ。
出会う前であるのに、続編であるため、後々の行動がここに集約している。先があるのはバディものにとって良いことである。
ふたりでいること、離れること、満たされないこと、意外と3番目がバディムービーに必要だったりする。
この作品はいつ観るかによって変わってくる。最近観たものは微笑みを持って鑑賞出来るだろうが、『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』上映以前では悲哀しかなかった。ただの記録ではないこの作品が、夢物語にならな>>続きを読む