KengoTerazono

美少女戦士セーラームーンSのKengoTerazonoのレビュー・感想・評価

美少女戦士セーラームーンS(1994年製作のアニメ)
-
ウラヌスとネプチューンが良すぎる。女性同士で男女のメロドラマをしている。彼女たちは決して統一者にはなれない。統一者とは、敵から提示されたいずれかの論理(タリスマンを殺して世界を救うか否か、あるいはセーラーサターンを殺して沈黙を防ぐか否か)を全て跳ね除け、選択を拒むという選択をすることによってなることができるのだ(タリスマンを殺さずに世界を救う、あるいはほたるを殺さずに沈黙を防ぐ)。ウラヌスとネプチューンは違う。彼女たちは人を殺したくないと切に願いながらも殺さざるを得ない。そこが最高にメロドラマティックなのだ。

セーラームーンらが綺麗事の全体性を保ち続けることができるのも、見えないところでウラヌスらが汚れ仕事をしているからなわけだが、セーラームーンらがそのことを知れば、看過するわけにはいかない。それを看過してしまえば自身の全体性に齟齬をきたすからだ。では、セーラームーンら内部太陽系の戦士たちが湛える全体性とは何か。それは異性愛を軸としたホモソーシャリティだろう。うさぎと衛、その子どものちびうさを守るために彼女たちはホモソーシャルな防衛網を張るのだ。だが外部太陽系の戦士たちは違う。彼女たちのコミュニティはホモセクシャルなコミュニティだ。まことが天王はるかに惚れる回で、うさぎが「まずいまずい」と仕切りに言っていたが、あれは本当にまずいのだ。ホモソの中で恋愛すれば、それは彼女らの全体性に亀裂を与えかねない。内部太陽系の戦士たちは異性愛中心でなければならないのだ。外部太陽系と内部太陽系ではそのコミュニティの論理が違う。メジャーな内部太陽系を維持するために、外部太陽系は人知れず汚れ仕事をする。この二者が最後まで分かり合えることはないだろう。ウラヌスとネプチューンが引いたのは、あくまでセーラームーンを統一者と認めたからだ。
この二項対立は非難されるべきではない。なぜなら社会の鏡そのものだからだ。同姓同士の結びつきの明確な差が宇宙と時間のサーガの中で明らかになっている。そして社会はいつでも異性愛が中心だろう。

ウラヌスとネプチューンはセーラームーンの綺麗事にどうしても馴染めない作り手の足掻きのようで、シンパシーを感じる。
KengoTerazono

KengoTerazono