タケオ

ボージャック・ホースマン シーズン1のタケオのレビュー・感想・評価

4.4
-自己中で傲慢な馬が体現する人間存在の愚かしい本質『ボージャック・ホースマン シーズン1 』(14年)-

 動物と人間が共存する愉快な世界観やキュートなルックが魅力的な作品ではあるが、その実、本シリーズがまざまざと描いているのは、『サンセット大通り』(50年)や『イナゴの日』(75年)とも通ずるハリウッドの住人たちの暗黒と絶望である。
 本シリーズの主人公ボージャック・ホースマン(ウィル・アーネット)は、かつて『馬か騒ぎ』というシットコム・コメディで一世を風靡したものの、今ではすっかり落ちぶれてしまったハリウッド俳優だ。ままならない現実と折り合いをつけることができず、酒とドラッグとセックスに逃避するだけの空虚な日々を過ごしている。自伝を発表することでかつての栄光を取り戻そうとするボージャックだが、ゴーストライターを雇ってもなお、まったく作業が進まない。何故ならそれは、自分自身=現実と向かい合うことを意味しているからだ。傲慢で自己中心的な皮肉屋のくせに、誰かから嫌われることだけは極端に恐れるボージャック。誰よりも幸せを望みながらも、その身勝手な性格ゆえに、自ら幸せの可能性を手放していく彼は、自己矛盾に満ちた共感し難いキャラクターのように思える。しかし、そんなボージャックの姿をどうしても他人事として割り切ることができないのは、心の奥底では彼が抱える鬱屈と絶望を少なからず共有できるからだろう。脇役たちの何気ない一言が、幾重もの意味を纏ってボージャックを追い詰めていく様には心をえぐられる。次第に、鑑賞している自分自身まで追い詰められているような気がしてくるのだ。
 本作は伝統的な「ハリウッド残酷物語」ではあるものの、実のところボージャックを追い詰めているのはハリウッドの暗黒ではない。彼を絶望の淵へと追い詰めているのはいつだって自分自身=現実だ。本シリーズがブラックな笑いとともにグロテスクにカリカチュアライズしてみせるのは、自己矛盾に引き裂かれ続ける人間存在の愚かしい本質なのである(馬だけど)。
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