浦切三語

サイバーパンク エッジランナーズの浦切三語のレビュー・感想・評価

5.0
わざわざギブスンの「ニューロマンサー」を持ち出すまでもない。「モナリザ・オーヴァードライブ」「ブレードランナー」「攻殻機動隊」「BLAME!」「マトリックス」「マルドゥック・スクランブル」「バルドフォース」に「バルドスカイ」……媒体を変えて描かれてきたSFジャンルの「花形」にして、すでに立派な古典としてSFの歴史に足跡を残した「サイバーパンク・ジャンル」の新たな傑作。それが「サイバーパンク・エッジランナーズ」である。ICE、コーポ、クローム、インプラント、ネットランナー……もはやサイバーパンク・ジャンルでは「お約束」な専門用語の嵐、躍動するリミテッド・アニメーションの妙、容赦のないグロテスク、個性的で魅力的なキャラクター、オブジェクト感を強調した電脳空間……自分のようなサイバーパンク・オタクにとっては「誕生日でもないのに、こんな贅沢なプレゼント山ほど貰っちゃっていいんすか!?」と恐縮しきりだ。

いまどきサイバーパンクなんて古すぎる……もし、そう考えている人がいたら、そいつはサイバーパンクに対する偏見か、そうでなければとんだ間抜け野郎だと言える。断言するが、サイバーパンクはいつだって「現代的な物語」足り得るのだ。

なぜなら、サイバーパンクというジャンルは「発展したテクノロジーと社会構造の関わり合いを通じて、人間の生活や価値観の変容」を描くジャンルであり、僕ら現代人にとって無視することのできない普遍的な題材を、その中核に据えているからだ。

そう、これはコロナ禍を経験し「命と経済」のアンバランスな現実を目の当たりにした僕たちに向けられた物語だ。道徳面において尊い「はず」の個人の命が、大多数のための経済を維持するために簡単に捨てられるこの現代世界と、徹底して命の軽さを強調する「サイバーパンク・エッジランナーズ」の舞台となるナイト・シティ。両者の差異はビジュアルな部分だけで、その本質的な部分において、両者は同一線上に存在しうると言える。

僕たちの命の、なんと軽いことだろう。僕たちの命の、なんと普通なことだろう。その普通な命を意地でも輝かせるためにSNSや配信スペースを使う人たちの、なんと多いことだろう。命の軽さから、まるで目を背けるような行為を当然のものとする現代社会に、ナイト・シティの住人たちは笑いながら銃口を向ける。彼らは知っている。巨大企業が世界経済や軍需産業を牛耳り、幸福のありかたが形骸化し、あらゆる個人情報がサービスの代価として企業へ差し出されるこのナイト・シティにおいて、命は絶対的且つ神秘的な価値を保てない。治外法権の領域から外された命の価値は計算可能な存在として消費され行くのだ。それを分かりやすいかたちで示したのが、サイバーウェアであり、インプラントであり、クロームなのである。テクノロジーの発展と法整備により計数可能な社会として刷新されていくこの世界から、僕たちは逃れられない。

ならば「どうやって生きるのか」「そしていかにして死ぬのか」……ナイト・シティの底辺層に属する少年、デイビッド・マルチネスはその体現者だ。ナイト・シティの犠牲者であり、簒奪者であり、そして挑戦者でもある男。人の夢を背負うこと「しか」できない男。企業の手で思考と行動が均質化された社会の成果物であるかのように、「何者かになりたいのに、何者になれば良いか分からない男」が、幾つもの過ちと後悔を繰り返し、命懸けの正気を貫き、そうして最後に掴んだものは何か。それは、ナイト・シティには似つかわしくない、あまりにもロマンチックな結末。だがそれこそは「何者かになりたいのに、何者になれば良いか分からない男」だからこそ掴めた、至近的な「愛」のかたちであったのである。そう信じたいし、そうでなくてはならないのだ。
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