ワンピースは常に答えを出す作品だ。
パズルのような難題に尾田栄一郎が最後の1ピースをはめる。
まずジャンプ漫画の答えを出した。
修行は不要。技はキメの絵があればギミックにこだわる必要はない。駆け引きよりも感情移入が大事で、読者の気持ちさえ十分に溜め込んでしまえればパンチ一発で倒して良い。戦闘力の概念はあると分かりやすいので、賞金額というスマートな表現をする。超サイヤ人的なものもギアで表現する。同時に出して良い敵勢力は2つまで。主人公は最初から完成された人格でよく、成長は脇役で描けばいい。
(作風にもよる。修行や能力バトル、技の攻防を面白く描ける人はそれでもいい。ワンピースみたいに、なんの伏線もなく、いきなり新必殺技を出して敵に勝っちゃっても、十分に面白い漫画となるということ)
劇場アニメの答えも出した。
テレビアニメは漫画よりも客層が広いが、劇場アニメになると、ふたたびコアなユーザーが顧客となる。コアユーザーにとってはアニメオリジナル=外伝であり、番外編だ。ゆえに原作者がシナリオ、キャラクターデザインなどに大きく関わることで、原作と同格の物語にすることが彼らに対する売りとなる。
「ONEPIECE FILM」以降、ジャンプ作品の劇場アニメは原作者が大きく関わったことを強く訴求するようになった。
そしてこれ、実写版でも答えを出した。
余計なことをしない。
そのまま出しても違和感のないものはそのまま出し、逆におかしくなりそうなものだけをそっと変更する。
ウソップの長っ鼻とかね。
(はっちゃんは、あの腕をCGで再現し、CG感が出ないように画像を加工してゆくことは可能でも、その手間暇とストーリー上の重要性を天秤にかけて落としたのだろう)
原作をそのままやる。
字面にすると簡単なことのように思えるが、なかなか難しい。
まず予算がない。
日本の会社で実写化したら、もっとしょぼい絵になる。
絵とは背景だ。
ワンピースみたいなファンタジーは、美術にどれだけの予算をかけられるかが一番の勝負で、現実的な話、アメリカに作ってもらうしかない。
予算の壁を越えることが出来ても、余計な爪あとを残そうとする連中が現れる。
これも相当に厄介だ。
「漫画と映像ではメディアが違うから」「より広いユーザーに届けるために」などという言葉とともに、小賢しいアイデアで原作を切り刻む行為が行われる。
たいがいにして失敗する。
原作改変も、実は創造的な行為なのだ。
原作者に匹敵するほどの創造者でないかぎりは、原作を最大限に残すことを目標に映像を組み立てた方が良い結果となる。
宮崎駿でないなら、余計なことはしないほうがいい。
一部キャラの人種変更(異世界の作品に人種も何もないんだけれども)は、今のアメリカで作るための代償として受け入れるしかないところであろう。ウソップを黒人にしたのは合っていた。ルフィはラテンしか考えられないので、イニャキ・ゴドイが大正解だ。
(ガープやオーナーゼフ、ミホークなど、素晴らしいキャスティングだった)
アメリカ版が本家であることを逆に利用して、日本語吹き替え版ではアニメのキャストに声を当てさせた。声優の説得力は絶大だ。田中真弓が声を吹き込めば、ものの数秒でイニャキがルフィだ。
大事なのは、原作のキャラと同一人物の「雰囲気」を出せるかということだ。
100%のコピーではない。「雰囲気」が出せていれば、違うところがあってもいい。
オリジナルなシーンでも、漫画のキャラが言うようなセリフを言えているか。
そこで解釈一致なアクションを取れていれば、ストーリーは変わってしまってもいいのだ(とはいえ海上レストラン戦が短くなったのは残念だった)。
本作の目的はもう一つある。
100巻以上にまで膨らんだ原作を、1巻に戻って再構成し直すというミッションだ。
本作はゾロ、ウソップ、サンジ、ナミを仲間とし、グランドラインへと突入するまでの話を描きつつ、全体をルフィとガープ中将の物語としてまとめている。
ガープはルフィの祖父であり、実質的な父だ。海賊王の処刑に立ち会ったことも、エース登場後に生きてくる。早々にルフィを捕まえに動くのも、孫が賞金首になる前に連れ戻すためであり、息子(ルフィの父・ドラゴン)のようにさせないためだ。この辺はセリフとしては出てこないが、容易に察しはつく。
ガープのシーンが増えたことで、彼の部下となったコビーのシーンも増えた。
原作においては、数十巻後に、別人のように成長した姿で再登場するので、彼の新兵時代を追っておくことは後々の戦い(頂上戦争編など)で生きてくるはずだ。
アメリカのドラマなので、途中で打ち切られるリスクはある。
が、すでにNetflixでは新アニメの企画がスタートしている。最初のテレビアニメが終わらないうちから、リメイクアニメを作ろうとしている。リメイク版のスタッフは実写ドラマ版を参考にしつつ、さらに物語を練り上げられるはずだ。何度も再話されることで、お話は洗練され、磨かれていく。
神話や古典のように。