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RRRの視聴のレビュー・感想・評価

RRR(2022年製作の映画)
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映画、あるいは妄想させる商品
-『RRR』は誰のための映画なのか?-



何年か前に自分がインドの地方部をうろうろしていたとき、映画館で映画(主にタミル語)をよく見ていた。現地で見る「インド映画」に衝撃を受けつつ、観客たちのことも印象に残った。

『RRR』を見ながら、これはいったい誰が見るための映画なのかを考えていた。

観客の妄想としての映画、商品としての映画について書く。



インドの思い出話。
南インドのたいていの映画館は10代20代の若い男で賑わっていて、バイク乗りが多かった。仕事終わりに男友達と一緒に来ました~という感じのグループが多いのだ。 彼らは豊かではなく、かといって悲惨さはなく、何者でもなく、手軽な娯楽として映画を楽しんでいた。

その観客たちの平和な様子は、本編序盤の主人公2ケツバイクの様子とオーバーラップする。というか、重なるように作られている。

物語の序盤の感情移入は、妄想のためにも売上のためにも大事だ。



『RRR』の主人公たちは--あるいは多くの「インド映画」の主人公は--ネームレスな若年男性の夢を体現するものとしてスクリーン上を暴れまわる。

観客=何者でもない私は主人公に投影され、過剰にマッチョで、苦笑するほどの腕力/類まれな知恵で成功し、美しい恋人を得て、センターで踊り、承認され、英雄となる。

映画によって、投影的妄想が広がる。



(あまり本数を見ていないのに雑に括るのはよくないと思いつつ)インド映画の脇役や悪役はとても薄っぺらい。たとえ主人公の恋の相手であっても。

妄想ネタとしての映画だから、ピントがずれたり多面的になりすぎてはいけない。これはあくまで“私の話”なのだ。

その点、『バーフバリ』と『RRR』は全く違った。



ところで、ハリウッド映画の制作がそうであるように、インドにおける大作映画の制作は(おそらく)入念なマーケティングの上で行われる。

莫大な投資が行われ、巨大なチームが組まれ、脚本は入念に調節され、丹念に執拗に宣伝される。

売れるべき商品としての、映画。

現地での別タイトルは
Rise Roar Revolt
起て、叫べ、抗え
とでも訳せるか。

この作品がその狙い通りのヒットだったなら、
排外主義、ヒンドゥー至上主義、マチズモetc それらの得票率が推して図れる。

そして「母なるインド」という想像の共同体。
国旗はためくナショナリズムは、誰を興奮させるのか?



この映画の別テーマは、承認の願望なのかもしれない。

故郷に残る一族に認められるために生きる。
亡き父に認められるため戦う(load, aim, shootとは、父から子への呪いですらある)
白人男性に対する劣等を見返し、白人女性たちから熱狂的称賛を得る。

(個人的欲望に燃えたり、出世と階級のために奮起する英国人との違い。自分のために自分がいる英国人、故郷コミュニティのために滅私する主人公。)

そして、自己認識に組み入れれられたインドが鬼畜英国に勝利する。
ああ、私=インドはこんなにも強いんだ!



ジェニーは簡単なテルグ語ぐらい覚えようよ。
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