映画『想像』、反復の演技/演技の反復、経験、解像度
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しばらく前に『想像』という映画を観た。
チェルフィッチュの『三月の5日間』の稽古を延々と繰り返し見せる内容だったのだが、今回の映画と手法がとてもよく似ていた。
https://youtu.be/LCzLEQ0Bswg?si=-4Cn5_hXNj7BmNA9
と思ってインターネットを巡回していたら、この映画への岡田利規のコメントを見つけた。
https://niewmedia.com/news/028208/
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反復される演技を目撃するたびに解釈の解像度が上がっていき、ドラマが自分の経験に浸潤してくる。
白いシーツの質感、雨の叩きつける音、割れた窓ガラス、濁流の上の橋
実際のところ、俳優たちもそれを「経験」したわけではないのだが、演技を反復するなかでついにかれらもその経験を体得することとなった。
その体得の過程を目撃する私もまた、その経験を体得した。
反復の演技/演技の反復が、経験を伝播する。
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いったい、経験や記憶はどこに残っているのだろうか?
ときどき、自分の記憶ですら、曖昧になる。やったような気もするし空想のような気もする。
経験の記憶、記憶の解像度。
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反復を見るにつれ、その俳優を「昔から知っていた」ような気分になった。
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販売されていた台本を買った。
台本を読んでもちろんカタルシスがあったのだけれど、この映画を観ている最中に押されたツボは、必ずしもそのカタルシスに対応していたものではなかった。
むしろ、観ているときにごりごり押されていたツボは、俳優の「顔・声・身体」の作用だったように思う。
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150分の長丁場でもスクリーンにくぎ付けにされる編集の妙、サスペンス的プロットの緊張、よかったです。